ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

マインドフルネスで包んだ後にくる洞察

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ティクナットハンの「怒り」(岡田直子訳)を読んだ。

とても得るところが大きかったと思う。

恐れや怒り、不安、悲しみなどネガティブな感情(心的構成物)にどう向き合うか?が書かれていた。

その向き合い方はどの感情も同じだが、この本では特に人間関係を損ね、集合的には平和を脅かすものとして、「怒り(Anger)」について書かれている。

すなわち、良好な人間関係なしに個人の幸福は考えられないし、戦争を回避することなくして平和はない。いずれも「怒り」にいかに適切に対応できるかがポイントとなる。

上図は”The Heart of the Buddha’s Teaching”(p208)に掲載されている図を、怒り(anger)を対象に私が少しアレンジしたものを掲載させさせていただいたものだ。

波線で仕切られた円の下方部分は五蘊その5に出てきた「保蔵意識」(store consciousness)を表し、上方部分は顕在意識(mind consciousness)を表している。

保蔵意識にはあらゆる心的構成物の種子が存在しているが、図に表示したのは「怒りの種子」(seeds of anger)とマインドフルネスの種子だ。

この種子が何らかの刺激を受ける(本書では「自分で水をやる」あるいは「他者から水を与えられる」と表現されている)と、顕在意識に浮上し心的構成物である「怒り」が生じ、顕在化する。

私のように怒りっぽい人間は、この種子を浮上させる一連の神経回路が習慣化してしまっており(怒りの種子に水をやる習慣がついてしまっており)、些細な刺激で怒りが顕在化するのだ。

ではどう対処するか?(怒りがあまり問題ではない人は、以下の「怒り」を他のネガティブな感情、例えば不安などに置き換えてもらってもよい)

まず、「怒り」の原因は外にある、相手にあると考えがちであるが、その素は「自分の中にある」のだということを知らねばならない、その意味で「相手は二次的要因にすぎない」とティクナットハンはいう。

そして、顕在化した「怒り」を察知したなら、その怒りを認め、受け入れる。そしてその怒りをマイフルネスのエネルギーで包み込む。聞分けのない幼子を抱き締めるように。

マインドフルネスも種子はstore consciousnessに保蔵されている。それを顕在化させ、そのエネルギーで「怒り」を包み込むのだ。

そうすれば、怒りは静まり、「思いやり」(compassion)のエネルギーへと変容するという。その意味で「感情は有機的なもの」であり、生ゴミが堆肥に変わるように利用すればよいと書かれている。

マインドフルネスについて、訳者である岡田直子さんは大変上手に注釈にて説明されている。(「怒り」P26より引用)

ティクナットハン師の教えの中心であるマインドフルネスは「マインド(心)」が「フル(十分に満ちて)」ある状態、つまり、過去の出来事や未来の心配事などにとらわれることなく、「今ここ、この瞬間」に心が100%存在し、目覚めている状態をいいます。(引用ここまで)



そしてこれはインテグラル・ライフ・プラックティス(ILP)のシャドウ・モジュールの感情を変換させる方法にかなり近い。(このプラックティスでは「怒り」は「透徹した知性」に変換するとなっている点が異なるが)

感情に気づきエネルギーに昇華させる - ウィルバー哲学に思う


インテグラルの言葉を使うとマインドフルネスは目撃者(Witness)だ。マインドフルネス≒Witness(目撃者)といえるだろう。マインドフルでリラックスしている状態は、"Rest at the Witness"「目撃者に安らぐ」と表現される。

エックハルト・トールの言葉では「観察する」、「ウォッチする」がよく使われる。マインドフルな状態とは彼の象徴的な表現を使えば"Stay in the Now"だ。

いずれもその心的構成物を否認したり抑圧したりすることなく、その存在を認め、受け入れた上でマインドフルネスのエネルギーで包み込むのだ。

ではマイフルネスのエネルギーで包み込むとは、具体的にどうするのか?

3つの方法をティクナットハンは上げている。まず、呼吸。そして歩行、最後にメディテーションだ。

呼吸はお腹の上下運動を意識する。私はいつもこれを丹田の凹凸と表現している。特に吐く息が重要だ。お腹が凹むようにしっかり鼻から呼気を出し切れれば、自ずと吸気も深くなる。

怒りがこみ上げてきたら、怒りがあると認め、呼吸に意識を戻し、丹田での深い呼吸を繰り返す。

次に有効なのは歩行だ。私はそれほど歩行を意識してこなかったが、ハン師はよく歩行が良いと書いていて、ウォーキング・メディテーションという本まであるくらいだ。

詳しくはまた別のブログで取り上げるが、ここでは歩きながら呼吸を数えるのが良いことを確認しておこう。ステップと呼吸を合わせるのがポイントだ。吐くほうを長くする。例えば10歩あるく間に吐き続け、5歩あるく間、吸う。「6歩吐いて3歩吸う」でもよい。

吐きます 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
吸います 1 2 3 4 5

といった具合だ。

「外へ出て頭を冷やして来い」という慣用句があるが、その場合こうした意識的な歩行(ウォーキング)を行うのが良いといえる。

3つ目は坐ること。意識の中に怒りが生起していることを観察する瞑想だ。

ポイントは「マインドフルネスのエネルギー」あるいは「エネルギーとしてのマインドフルネス」(Mindfulness as energy)という表現だ。これは少なくともsubtleエネルギーが働いている状態を意味するのだと私は思う。

「少なくとも」と書いたのは、インテルラル理論でウィルバーのいう目撃者は、微細subtle、元因causalの次に続く非二元non-duelの一歩手前の状態(ステート)だからだ。Subtle以上の微細な状態から発するエネルギーで包み込むことが前提とされていることは間違いないだろう。

それはともかく、マインドフルネスのsubtleなエネルギーで包み込む、あるいは抱擁する。小さな子どもを抱きしめるように。

そして、そして、今回ここが一番言いたかったことなのだが、

しばらくそのようにして怒りが静まるのを眺めていると、「洞察」(insight)が起こるという。

私はここに「ピカッ」ときた。

そう、この洞察だ。

このようにして起こる洞察だ。

もう一度プロセスを整理すると

ネガティブな心的構成物「怒り」をマインドフルネスで包み、しばらく熟成させると、ある洞察が得られる。

この洞察こそ、「選択すべき解釈」なのではないか。


「経験に対する反応と解釈を選択することができる」ということに関連して、では「どのような解釈を選択すべきなのだろうか?」と考える。自分にとって都合がよいだけの単なるポジティブな解釈がその答えでないことは確かだ。

前回のブログでは、いかに「われわれはありのままを見ていないか」ということを五蘊に引き続いて考察した。

ありのままを見て、それまで構築していたストーリーが認知の歪みに基づいたものであったことに気づき、ストーリーを再構築することが大切だと書いた。ではそのストーリーがどのようにして再構築されるべきかというと、「このようにして起こる洞察によってではないか」と思うのだ。

それは私の場合で心当たりを探してみると、「正しいのでも正しくないのでもない」という洞察、あるいは、「ぶつかりあう美学」という洞察が、そうした洞察だったのではないかと思う。 

マインドとの脱同一化と、絶対否定 - ウィルバー哲学に思う

ぶつかりあう美学 - ウィルバー哲学に思う


認知の歪みを排除して「ありのまま」を深く観る。マインドフルネスによって「怒り」(Anger)を包み込む。その後に得られる洞察。この洞察こそ、単なるポジティブではない解釈、選択されるべき解釈なのではないだろうか。


※怒りに関して対人関係的な視点として本書にパートナーへの対応3つのステップ(24時間以内に伝え、最善を尽くす、助けを求める)が書かれています。人間関係への対応もたいへん重要なのでそれは稿を改めて取り上げたいと思います。