ACT(アクセプタンス&コミットメント セラピー)では、
・アクセプタンス
・脱フュージョン
・文脈(観察者)としての自己
・今この瞬間との接触
・価値
・コミットメント
の6つを主要な構成要素としている。(こころのりんしょうa la carte 2009.3 p81)
その中の「脱フュージョン」について今回は考えてみたい。
「脱フュージョン」はCognitive Defusionを訳した言葉であり、defusionとは「(爆弾の)信管を取り除く」という意味の動詞defuseの名詞形だ。すなわちそのままでは危険な「認知的フュージョン」(cognitive fusion)から信管を取り外して、分離し安全なものにして鎮めるというイメージを持てばよいのではないかと思う。
では認知的フュージョンとは何か?何と何との融合(fusion)なのだろうか?
「ACTをはじめるセルフヘルプのワークブック」(スティーブン・C ・ヘイズ、スペンサー・スミス著、武藤崇訳)では
・自分と自分の苦痛(あるいは感情、思考、感覚、記憶、衝動)のフュージョンP97
・思考と体験のフュージョンp99
・ことばとその思考が指し示す物事(referents)のフュージョンP115
・出来事と評価のフュージョンP98、p115
というようなフュージョンがあげられている。本書を参考にしながら私がこのブログで書いてきたこととの関連に触れながら解説してみたい。
自分と自分の苦痛のフュージョン
これは、自分の感覚や感情に苦痛があるとき、その苦痛と自分自身を同一化してしまうことだ。苦痛だけでなく、感情、思考、感覚、記憶、衝動などと同一化してしまう場合も同じ類のフュージョンだろう。風船のモデルでたとえると、タグをつけた風船に頭が入ってしまうような状態といえるかもしれない。
しかしそうではなく、それらの風船は自分の意識の中に、生起し、しばらく留まり、やがて去っていくものである。自分とは、青空から雲を見るように、むしろそれらを観察しているものなのだ(これが観察者としての自己である)。ウィルバーの著作ではWitness(目撃者あるいは観照者)としてよく目にするこの自己の視点に軸足を置くことで、このフュージョンを脱することが可能となる。
思考と体験のフュージョン
本書P99には最初の体験と二次的な思考を同一視すること、それが同様の体験を回避しようとする傾向へとつながることが説明されている。
この種のフュージョンが起こっていることは表現を変えるなら、一本目の矢のみならず「二本目の矢」を受けているということだ。小児がん経験者であるK君はこの仏教の「二本の矢」の話がヒントになり、苦悩が和らいでいったという。
Milton's Secretと「二本の矢」 - ウィルバー哲学に思う
これは、ミンゲールの言葉でいうところの「自作の苦」だ。こうしたときは必ずといっていいほど心は過去か未来、あるいはその他の観念を彷徨っている。それに気づいて注意を「今ここ」に戻す。そのためにはインナーボディやスペース、サイレンスを意識するとよい。
ことばとそれが指し示す物事(referents)のフュージョン
同じくP114~P115に、「ことばとそれが指し示す物事のフュージョン」、「思考とその思考が指し示す物事のフュージョン」について説明されている。ウィルバーの著書でよく出てくるソシュールのいうシニフィアン、シニフィエ、レフェランの関係を思い出した。ケンウィルバー『科学と宗教の統合』P162から引用する。
(以下引用)
ソシュールによれば、言語的な記号(シーニュ)は物質的シニフィアン(書かれた言葉、話された言葉、このページ上の諸々の符号)と概念的なシニフェ(シニフィアンに触れた時に心に浮かぶもの)で構成されている。両者とも実際のレフェラン(指示対象)とは異なる。たとえば木を見ているとすると、その実際の木がレフェランである。書かれた言葉「木」(tree)がシニフィアンであり、その「木」(tree)という言葉を読んだときに心に浮かぶもの(イメージ、想念、心的映像や概念)がシニフェである。シニフィアンとシニフェが合わさってシーニュ全体を構成している。(引用ここまで)
心の静寂と思考の不在によって特徴づけられる「意識のphenomenon」 - ウィルバー哲学に思う
曇りなき、眼で見定める Suchness - ウィルバー哲学に思う
Separate your thoughts from referents.
概念のベールを通さず、無濾過のリアリティを見るようにしたい。
出来事と評価のフュージョン
今回とくに書き留めておきたくなったのは、この「出来事と評価のフュージョン」である。
ミンゲールの著書にも、素足でストリートを歩く羽目になった出来事を嫌な体験として認識していたが、ある医師から足裏を刺激する健康法のことを聞き、そうした視点から素足で屋外をあることを捉えなおすと好ましい経験に変わったという例が出てくる。同じ出来事でも視点が変われば出てくる評価は変わるのだ。
しかし、たいていの場合、私たちは、ある出来事に対して、否定的な評価をラベリングすると、それが自分で貼りつけた評価であるにもかかわらず、出来事そのものが、そうした性質をもつものであるかのように思いこむ。苦が外からやってくるように思う。
これは「五蘊その4」でみた心的構成物の形成メカニズムだ。
例えばスピーチが上手にできず自己嫌悪に陥った体験が、否定的な心象を伴って記憶に埋め込まれている場合、いつもスピーチという出来事にネガティブな先入観を抱いてしまうというようなことが起こる。
スピーチは自分にとって「良くないもの」「苦手なもの」「避けたい出来事」となっていく。スピーチそのものは中立なのだが、あたかもスピーチは自分を不幸にするものであるように思いこんでしまう。
こうした出来事と評価の融合を切り分けるのが「脱フュージョン」だ。ACTでは脱フュージョンの方法がいくつか示されている。20秒以上、その言葉の発音を繰り返すことでシニフィアンとシニフィエの関係を希薄にする方法や、思考プロセスのラベルを貼る方法(8月5日のブログの風船にタグをつける方法)などがある。
いずれにしても出来事をありのままに見ることが大切だ。
出来事には色はついておらず、無色で中立なのだ。それに色をつけているのは自分なのであって、自分が張り付けた評価(あるいはジャッジ)というラベルに自分が反応しているのだ。そのようなプロセスを興味深いと思ってみよう。そうしたメカニズムは他の動物にはない。
脱フュージョンで出来事と評価を切り分ける
自分を観察する中で、今日から意識的にやってみようと思う。