ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

フェルトセンスをシフトすることで事態を好転させる

立命館大学応用人間科学研究科教授、中川吉晴さんの「気づきのホリスティック・アプローチ」を読んでいて、この本に書かれていることと、最近自分に起こったことが「関係があるのでは?」という感触が数日前からしていた。

そして昨日届いた、ジェンドリンの「フォーカシング」に目を通していて、やっぱりこれだ!この「フェルトセンス」が「シフト」したのだ、と確信した。

「フェルトセンス」が「シフト」するとはどういうことか?

それを説明する前に、この2週間ほどの間に起こったことを簡単に触れたい。プライベイトなことなので詳しくは書かないが、この半年以上かけて交渉してきたあることが、何とも理解しがたいある専門家の方の抵抗(こちらの立場からすると抵抗と感じられた)にあって頓挫しようとしていた。

この件に関して交渉相手との間に入られたその専門家の方は、本来私たちに好意的な立場の方なのだが、なぜそのようにこの件において抵抗されるのか、どうも理解が及ばず、何だか嫌な感じがしていた。

そして関係者が集まって話し合う機会をもったのだが、そのミーティングの冒頭にちょっとした言葉のやりとりがその方の逆鱗に触れ、その方は立ち上がってしまい、話し合いは本題に入るまもなく、終えてしまうところだった。

何とかそこはもう一度席についてもらい、話を再開した。というかその方のおっしゃることに耳を傾けた。

10分ほど聴いているうちに、私の内側で「何か」が腑に落ちた。

そうか、無意識に気になっていたのはこれだったのだ!

全てが「氷解」した気がし、「分かっていなかったのは自分たちの方だったのだ」という思いと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

エレベーターまで送っていくときにネガティブな感情のエネルギーは涙に変わっていた。

いったい何が起こったのか?

私たち(少なくても私)は、交渉相手にとっての懸念事項を、意識の端の方に押しやっていた。

なぜならその懸念事項は、直視すれば自分たちにとってむしろ不利になるかもしれない、やや都合の悪い事柄であり、できればあまり考えたくなかったのだと思う。

私たちはその件に関して専門家ではないので、(その専門家ではないという認識も無意識の内に先方の立場から考えられる心配事に思いを馳せないという甘えを生んだのだが)知識のないことも手伝って、その懸念事項を脇に置いて事を進めようとしていたのだ。

そして話を聞いているうちに、周縁化されていた相手の懸念事項が意識の中心に戻ってきてはっきりと自覚されたのである。

その後、その専門家の方との関係はとても良いものに修復(むしろ以前よりも良好かもしれない)され、その方の尽力により前に進むことになった。


これは、フォーカシング(focusing)でいうところのフェルトセンス(felt sense)のシフトが起こったのだ。

フォーカシングについて、ウィキペディアでは以下のように解説されている。

「ユージン・ジェンドリンにより発見された、人間の体験過程とその象徴化の過程、または、それを促すためにジェンドリンが体系化した技法をいう。具体的には、まず胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら、何かの気がかりにまつわる感じ(フェルトセンス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ。次に、その感じにぴったりな言葉(ハンドル)を探し、見つかれば、その言葉がフェルトセンスにぴったりかどうかを突きあわせて感じてみる。違っているようであれば、再びぴったりくる言葉を探し、もう一度、フェルトセンスと照合してみるという過程を繰り返す。フェルトセンスとハンドルがぴったりであれば、フェルト・シフトと呼ばれる、ぴったりだという感覚と解放感が得られることがある。」



フェルトセンス(felt sense)とは彼の造語であり、「ある問題(特定の気がかりなこと)についての言葉になっていない身体的不快感、からだの感じ」である。「ひとつのフェルトセンスは、最初はあいまいで、不明瞭で、ぼんやりしたものです。これがこの状況での私の不快感なのだと感じ、それがどのようにまだよくないかという、からだで感じる意味のあるものになります。しかしこれが何なのか、たとえいろいろと考えることはできるにしてもまだよくわからないのです」(フォーカシングP7)と書かれている。

私はこの解説を読んでいて、このフェルトセンスは五蘊その2のfeelingだ!と思った。またそれは、コージブスキーのいうObjectレベルの経験であると思う。


コージブスキーは、「コト(出来事)」(Event)→「モノ(対象)」(Object)→ラベル(名づけ)→記述→推論→判断というようにカスケードのようにリアリティにフィルターがかかってその全体性が抜け落ちていく様を「構造微分図」として描写した。それは私たちの認識においてリアリティが抽象化されていくプロセスである。

中川氏によると「コト」の次元とは、「現に今起こっていることの全体(宇宙の全体)であり、ありとあらゆる現象を含んでいる」という。「モノ」はそれから「第一次の抽象化」がフィルターを通して進んだレベルで、「言い表せない、モノのレベル」。言葉にならないある種の感じ(feeling)として把握されるという。


コージブスキーはモノの次のレベルを「ラベル(名づけ)」としたが、中川氏いわく「モノ」の次のレベルとして「シンボル化」があり、その次に「概念化」がある。「概念からシンボルへ、さらにシンボルから(微細な)体験過程へと遡っていくことが必要なのである」という。

これはウィルバー哲学でいうところの粗大(gross)から微細(subtle)への流れだ。

中川さんの書かれていること(ジェンドリンのいっていることであるが)で大変興味深いのは、このObjectレベルであるフェルトセンスにもどって身体に聞くなら、ピタッとくる言葉が得られ、「創造」が起こるとしている点だ。

フェルトセンス⇔シンボル⇔ことばのサイクルを何回か探るうちにピタッとくる言葉に出会うという。

それは微細な経験にとどまる気づきの力と結びつけられなくてはならない。創造というのは、感じられた意味に気づき、その気づきを保ったまま、それが導いていく方向に従っていき、最後にそれを言葉にしたり、イメージにしたり、動きにしたり、音であらわしたりすることである。(「気づきのホリスティック・アプローチ」P258)



なんとこれは、「マインドフルネスで包んだ後にくる洞察」と同じメカニズムではないか!

マインドフルネスで包んだ後にくる洞察 - ウィルバー哲学に思う


ジェンドリンはいう。「フェルトシフトがあり、開け(opening)があると、全体が具体的に変化し、ユニークな意味が現れてくるのです。」

今回は結果として事態が好転したが、フェルトセンスがシフトしたとしても何も客観的な状況は変わらない。したがって合理的には何も変化していないのだが、自分自身がシフトすることで、その物事との関係、その人との関係が変化するのだ。

フェルトセンスのシフト、無濾過のリアリティとの関連性において、創造や洞察がどのように働くかという視点を提供してくれるものとして興味深いと思う。