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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

ことばで言い表せないものの価値を見出す

前回のブログで「価値体系の変革」ということを書いた。

ではどのような価値体系へ変革するのが望ましいのであろうか?

インテグラル理論的には価値観の梯子(cf.スパイラル・ダイナミクス)を上に登っていくことであると結論づけられそうであるが、

グリーンを超えて - ウィルバー哲学に思う

(2009年8月23日のブログ『グリーンを超えて』参照)

ここでは「抽象のハシゴ」を下っていくことのなかに価値体系変革のヒントを探ってみたい。

日系アメリカ人の言語学者であるサミュエル・I・ハヤカワは、構造微分図を提唱したコージブスキーらの一般意味論を学問体系として確立したが、その著書「思考と行動における言語」(大久保田忠利訳)の中で「抽象のハシゴ」というものが紹介されている。これは私たちが対象を経験する場合に働く抽象の過程(process of abstracting)をモデルとして図に表現したものだ。

http://hktranscode.blogspot.jp/2010/07/ladder-of-abstraction.html

図では梯子の第3段で「ベッシー」と名付けられた牝牛が、第4段では「牝牛」となり、第5段では「家畜」、第6段で「農場資産」、第7段「資産」、第8段「富」というように段々と対象が抽象化される様子が示されている。(第1段と第2段は図にことばが付されていない。これはことば以前の、ことばにできない認識レベルであるためであるが、便宜上第1段を「過程ベッシー」、第2段を「対象ベッシー」と呼ぶ)

第1段の「過程ベッシー」についてP171に次のように書かれている。(以下引用)

われわれの前に、牝牛のベッシーがいるとしよう。ベッシーは生きものであり、絶えず変化している、絶えず食物や空気を取り入れ、それを変形させ、それをふたたび排出している。その血は循環し、神経は通信を送っている。微視的に観察すれば、ベッシーは諸種の血球と細胞と細菌組織のカタマリである。現代物理学の見地から観察すれば、電子の不断の舞踏である。ベッシーを総体として知ることは決してできない。たとえある瞬間のベッシーがこうであったと言えたとしても、次の瞬間には変化しているので、われわれの叙述はもう正確ではなくなっている。ベッシーにしろ何にしろ、何かが真にこうであると完全に言い切ることは不可能である。ベッシーは静止した「客体」ではなく、力動的な過程である。(引用ここまで)



この「過程」という言葉にピンときた。ACTでいうところの「プロセスとしての自己」の「プロセス」とはここで説明された「過程」のことだ!このことは後日また取り上げる機会があるだろう。それはさておき第2段の「対象ベッシー」はこう説明されている。

われわれが知覚する牝牛は、語ではなく、経験の対象である。われわれの神経系が、過程-牝牛を形成する全体から抽象(選択)したもの。過程-牝牛の多くの特性は落ちている。



しかしながらこのことば以前の段階は、コージブスキーのいうラベル以前(名付け以前)の段階であるObjectの段階である。そしてそれは中川吉晴氏のいうようにフォーカッシングでいうフェルトセンスの感じられるfeelingレベルであり、五蘊その2「受」(feeling)という微細な認識過程なのだ。

引き続き「抽象のハシゴ」の説明(P172~p174)より引用する。

ベッシーは唯一無二である―宇宙内に、あらゆる点でまったくそれと同様なものは、ほかには無い。けれどもわれわれは、自動的に(第1段の)「過程ベッシー」からそれが他の動物と、形・機能・習慣などで似ている点を抽象、すなわち選択して、それを(第4段の)「牝牛」として分類する。
だからわれわれが「ベッシーは牝牛である」という時、われわれはただ「過程ベッシー」と他の「牝牛」との類似性のみに注目し、差異は無視するのである。・・・
その上、われわれは大きな飛躍をしている、力動的な「過程ベッシー」から・・・比較的静止した「観念」「概念」あるいは語「牝牛」へ、と。・・・
われわれの見る(第2段の)「対象」は最低のレベルの抽象である。しかしそれでもなお抽象である。というのは、それは現実のベッシーである過程の諸特性を落としているから。(第3段の)「ベッシー」という語は最低の言語レベルの抽象である、それはさらに諸特性を落としている。・・・
(第4段の)「牝牛」という語は、ベッシー、デイジー、ロージー等々の類似性だけを選んでおり、それゆえベッシーについては「ベッシー」という(第3段の)語よりもさらに多くを落としている。(引用ここまで)



ことば以前の段階にあるリアリティ、概念や観念のベールを通して物事を見るのではなく、「ありのまま」の現実、無濾過のリアリティを見るのである。

神谷氏の「生きがいについて」のP273に英国の詩人ウイリアム・ブレイクの歌が引用されている。

一粒の砂のうちにも一つの世界を見、
一輪の野草のうちにも一つの天国を見、
てのひらに無限をつかみ
一時間のなかに永遠を持つ



そこには美があり、豊饒さがあり、そして喜びがある。そうした「ことばで表せない次元のものに価値を見出す」という価値体系に変革することが大切なのではないか。

そしてそれはとりもなおさず、「価値観の梯子」を上にのぼることと同じことなのではないだろうか。

抽象のハシゴを下って、価値観の梯子を登る。

これが価値体系を変革するひとつのあり方なのだと思う。