ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

観察者としての自己による傾聴とヘルプ

ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)でいう『観察者としての自己』にとどまる(ウィルバーの表現では”Rest as the Witness”)ことが、ヘルプしようとする人の話を聴く姿勢としてもたいへん望ましいものである、ということがわかりました。

ラム・ダスの『ハウ・キャナイ・ヘルプ?』の第4章「耳を傾ける心」からいくつか印象に残った表現を以下に抜粋します。( )は文脈を分かりやすくするために補足したものです。(以下引用)

・人を助ける能力の大部分は、私たちの心の状態にかかっています。

・心の思考力を使って私たちは火を使い、技術を工夫し、食物を育み、・・・病気を治し、寿命を延ばす手段を発見しました。・・・しかし心には理性以上のものがあります。より深い心の質と時にみなされる、気づきそのものがあるのです。

・もし私たちが自分の心の動揺を調べてみて、それを超えて向こうを見たいと望んでいるなら、内面のより大きな穏やかさ、より鋭い集中力、より深い直観的な理解、互いの気持ちを聴ける能力といった、驚くべき可能性を秘めた部屋への入り口を容易に見出すことになるのです。こうした探求は、人を助ける仕事において決定的です。

・電話が鳴る。・・・助言を求める誰かだ。電話の向こうでは、苦痛を何とか表現しようと、ことばを見つけようとしている。・・・ある時点で(私のアタマの)判断が、ああだこうだと言いだすかもしれない。「この人は本当に問題をロマンティックにしている・・・こんなことはもう終わらせてなきゃならないはずなのに・・・」

・(相手の話を聞いているときも)こうした精神的おしゃべりは、来てはまた去っていきます。その中で本当に迷ってしまって、戻ってくる頃にはキーポイントを逃したと気づくこともあります。しかも、もう一度繰り返して、と尋ねるには遅すぎるのです。

・判断する、評価する、考えが湧く、自分のせいだと思う、飽きる―助けるという行為には反応や注意散漫への誘いがたくさんあります。一生懸命助けたいと思うがゆえに、私たちはある程度動揺するのです。・・・同時に頭を使って問題を解決しようとしているのかもしれません。有能であろう、何らかの解決策を見出そうとがんばる(がんばってしまう)のです。

・湧き起こってくる考えが、情報を前もって選択するふるいとして働きだすのです。ある思考が別の思考を排除するのです。こうした精神活動がもたらすものは、互いが出会ったり、新たな真実が現れたり、物事が「ちょうどよい時」に明らかになる余地をほとんどなくしてしまうことなのです。

・自分たちの心をしばらく観察しつづけるなら、心がいつも注意散漫で忙しいわけではないことに気づきます。誰もが思い当たることですが、心が集中していて鋭く明快な時があります。

・私たちはこうした強烈な集中状態から、一極集中の作用として、役に立つ洞察がおのずから湧き上がってくることに気づいています。・・・こうした体験が、心をもっと規則的に正しく静かにしておくために何かできないだろうか、心の集中力を高めるために何ができるだろうか、共感と憐みに心をもっと同調させるために何ができるだろうか、という問いかけに私たちを導いていきます。これによって、他人を助ける私たちの能力がどれほど豊かになることか。

・思考の流れを止めることはできません。しかしそのことを見抜き、観察することで、思考に振り回されている状態から自分を解放することができるのです。

・思考は感覚、感情、思い出、予想、憶測といった形で湧き上がってきます。・・・思考そのものを止められないとしても、私たちの気づきがそうした思考の一つ一つにとらえられないようにすることはできます。

・心が青空のようなもので、通りゆく思考が雲のようにそこを横切っていくものだと想像するなら、自分の思考以外の部分を感じることが可能です。・・・自分とその思考の一つ一つを同一視する必要はないのだとわかります。静かにとどまり、どの思考に注意するかを選ぶことができるのです。さらにこうしたすべての思考の背景で、目覚めつづけていることができるのです。この状態は、まったく新しいレベルの解放と洞察をもたらします。

・この気づきが私たちに何であれ自分の中に起こっていることに、他のすべてと共に、耳を傾けさせるのです。この気づきの領域においては、私たち自身の精神的反応さえ、他のことと同様に観察の対象になるのです。

・巧みな援助の行為の中で、心が穏やかで明快なままでいるとき、私たちの展望にはゆとりがあります。それは大気のようであり、広々としたスクリーンのようであり、全体的でもありながら、すばやく焦点を合わせることができるのです。

・状況全体への静かな理解とその状況がもっている可能性が、物事の解決へ向けてしっかりと動いていきます。

・私たちは雲を観察しながらも、空に焦点を合わせていることができます。私たちは全体性に気づいているのです。

・分析的な心からではなく、こうした広々とした気づきの場から機能するとき、「考えてみること」なしに、問題の解決法を見つけて驚かされることがよくあります。

・(私たちはこうした耳の傾け方を直感と呼んでいますが)直感へのこうした耳の傾け方は、究極的には、信頼を基礎にした明け渡しの一種です。耳で聞いているようでも、実際は内なる声に耳を傾けているのです。

・静かな心で耳を傾けることを学ぶと、たくさんのことが聞こえてきます。私たちの内部で、長いことやかましい思考によって消されていた、クエーカー教徒が「小さく静かな内面の声」と呼ぶところの直感の声を聞きはじめることができます。

・ヴァースデーヴァが教えてくれたことよりももっとたくさんのことを、彼は川から学んだ。なかでも、どうやって情熱や欲望や判断や意見をもたずに、静かな心で何かを待ちうける開かれた魂で聞くのかということを学んだ。―ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』より―

・助け合いの場では「聞こえるよ」はもっと深いメッセージを表わすことがあります。「わかるよ。一緒にいるよ」こうしたメッセージは、痛みや苦しみの中で孤立しているとか、一人ぼっちだと感じている人を、このうえなく安心させるのです。

・しかしこの心から聞くという、その最大の可能性に達するためには、思考の罠に気づいている必要があります。人を助けようとするとき、・・・相手としばらく一緒にいると、彼らを元気づけるよりも自分たちが沈んでしまうように思えるのです。相手の自己憐憫や恐れや欲求が、どういうわけか私たちに影響を与えはじめるのです。それは誰かを流砂から引き出そうとして、突然自分が沈みだしたと感じるのに少し似ています。

・ここで再び、思考の往来に注意を怠らない能力が、自分と人との関係の中で役立つのです。相手の痛みを聞く・・・相手は聞いてもらったと感じる・・・混乱の内側で私たちは出会うのです。しかも相手のとらわれた心が私たちを引きこみはじめるかもしれないときに、私たちはそれに気づくことができるだけでなく、それを予期することさえできるのです。相手に何が起こっているかだけでなく、自分に何が起こっているかについても注意を怠らないのです。

・思考の牢獄に閉じ込められている人にとって、耳を傾けてくれる心や、元気づけてくれる心に出会うのはどんなに気持ちがよいでしょう。耳を傾ける心は、それ自体が相手の心も傾けさせる誘いのようなものです。

・心の動きを探ることで、多くの思いやりのある行為がなされます。集中を通じて、互いにより新しいかかわりを作り上げることが可能です。広々とした気づきを通じて、状況の全体像をとらえることができ、洞察がその役割を果たすことができるのです。そうしてますます、私たちは援助の媒体となっていくのです。あたかも何か新しいことを獲得しているかのようですが、そうではありません。むしろ自分たちの自然な能力を使うことを妨げていた障害を、取り除いているのです。(引用ここまで)


そしてこの章の最後(『ハウ・キャナイ・ヘルプ?』p161)には、ダライ・ラマの主治医であるイェシ・ドンデンがある心臓病の女性を回診する様子が描かれています。すばらしいです。機会があれば皆さんもぜひ読んでみてください。

またこの章の文章を読みながら何度も清水博先生のいう「場所中心的自己」や

場所中心的自己 - ウィルバー哲学に思う

フェーミ博士のいうdiffuse/objectiveとdiffuse/immersedを自由に行き来するアテンションの払い方を思い出しました。

どんなアテンション・スタイルをとっているかにアテンションを払う - ウィルバー哲学に思う

そしてそうした心のあり方は、人の話に耳を傾け、役に立とうとする仕事において決定的に重要でなんだということです。

観察者としての自己による傾聴とヘルプ

対人関係において心がけていきたいと思います。