ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

自由が不自由を生じさせるという逆説

フランシスコ・ヴァレラの「身体化された心」(工作舎)を読んでいて、

そうか、自由が不自由を生んでいたのだ...

と腑に落ちました。

フランシスコ・ヴァレラはミンゲールの著書にも出てくるので名前だけは知っていましたが、チリの生物学者で認知科学の専門家、オートポイエーシスの概念をマトゥラーナと共に提唱した人です。

第3部「創発の多様性」という章の中に、「三昧と自由」という節があります。以下にそこから引用します。(以下、三昧とはマインドフルネス、覚とはアウェアネスのことを指している)

三昧/覚の修行者は、条件づけられた自動的行動パターンを三昧により断つことができるようになる(特に、渇望の生起による自動的な執着から解放される)。これがさらに三昧になる能力を高め、注意の領域を覚(アウェアネス)にまで拡大させ、無明の根源に迫ってゆく。このアウェアネスが経験の本質に対するより深い洞察をもたらし、それにより無明と自我中心的な意思作用に基づいた、無思慮な常習パターンの全サイクルを放棄するさらなる欲求と能力とが培われる。(p178)


この節の前には無明からはじまる12因縁が解説されており、この「条件づけられた自動的行動パターン」とは12因縁の連鎖によって形成される常習的パターンを意味しています。

悟りを開いたブッダは12因縁の連鎖を探求し尽くして、この連鎖を断ち切る方法を希求した。過去については手の施しようがない。過去に遡って無明と行(為)を消せはしないのだから。そして、人は生きていて、心身の生物体(名色)を有する以上、六つの感覚(六処)の場とその対象との接触(触)は避けられない。感覚が生じる感情の状態(受)も、それから生じる渇望(愛)も避けられない。しかし渇望から執着(取)は不可避なのだろうか、と。
ある伝承によると、ブッダが三昧の技術を明確に述べたのはこの時点である。あらゆる瞬間に、正しく鍛えられた三昧を実行することによって、人は自動的な条件づけの連鎖を断つことができる。渇望から執着へ、さらに後続するものへ必ずしも自動的には移行「しない」と。常習的なパターンを断つことがさらに進んだ三昧を生じ、最終的に修行者は、心身をリラックスさせてより悟りに近づき、経験される現象の生起と減衰への洞察を深めることが可能になる。(p168)



無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死という12因縁が大変すっきりと表現されています。

そして三昧が、この12因縁連鎖を断ち切る機能として位置づけされているのです。これは私にとって重要な発見でした。

もう一度「三昧と自由」の節に戻ります。

渇望と執着を抑えると、欲求が消失し、無感覚になったり逆に緊張しすぎたりするのではないかと懸念されるが、事実はその逆なのである。ふらついた思考、速断、勝手な思い込みという厚い繭に包まれ、無感覚状態になっているのは、三昧になく気づきのない心の状態の方なのだ。三昧が深まると、経験を構成するものに対する理解も深まる。三昧/覚の主眼は、現象界から心を解放することではなく、この世界に心を完全に存在せしめることなのである。行為を避けることが目標なのではなく、行為のなかに完全に存在し、より即応的で気づきのある行動をとるようになることが目標なのである。(p179)



これは2010年8月13日のブログで書いた「行為のさなかにある自分に気づく」と同様のことであると思い出しました。

行為のさなかに在る自分に気づく - ウィルバー哲学に思う


そして次が標題にしようと思ったくだりであり、「自由」との関係が書かれています。

現代社会では、自由は、自ら欲することを為しうる能力として概して考えられている。縁起説はそれとは根本的に異なっている。自我の感覚から欲することを何でもすること(意思作用)は、この体系によると、もっとも不自由な行為なのである。何故なら、条件づけのサイクルによって過去に縛られていて、将来の常習パターンへさらに隷属することになるからだ。より自由になるということは、縁起の条件と現在の状態に秘められた真の可能性に対して敏感になり、執着と自己中心的な意思によって左右されない開かれたやり方で行動できることなのだ。この開放性と感受性により、自らの即応的な知覚圏が広がるだけでなく、他者を正しく評価して、彼らの窮地に対する共感的な洞察力を培うことも可能になる(p179)。


短い文とフレーズの中に、深くて濃厚な意味が凝縮されているのが見てとれます。

「自我の感覚から欲することを何でもすることは、もっとも不自由な行為なのである」

なるほど!!全くその通りです。

そうした自由は、じつは呪縛へとつながっていくものだからです。

「条件づけのサイクルによって過去に縛られ将来の常習パターンへさらに隷属する」とは、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)の言葉ではフュージョンのことであると気づきました。

脱フュージョンで出来事と評価を切り分ける - ウィルバー哲学に思う


(そして脱フュージョンするのにマインドフルネスが有効であるというACTの主張は、12因縁連鎖を断ち切るのに三昧が決め手となるという本書の主張と同じであります。)


そうです。三昧(マインドフルネス)は自由への扉でした。

自由を与えてくれる青い鳥はここにいたのです。

「自由が不自由を生じさせるという逆説」をあらためて肝に銘じ、12因縁連鎖を看破する「三昧」を実践したいと思います。