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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

複雑系としての空を理解し経験の質を変える

フランシスコ・ヴァレラの『身体化された心』が面白い。

現実は客観的事実として、われわれから分離、独立してそこにあるのではないことが色視覚の例を引いて記述されている。

英語圏では緑と青を識別するが、メキシコのある種族では緑と青を区別する言葉がない。その種族にとって緑はわれわれにとっての青なのである、というように。

すなわち、外に独立してあるように見える事実は、文化によって、間主観性(ウィルバーのいう四象限になぞらえるなら左下象限)によって影響されるのである。

また、蜂には人間の中枢神経系に見えない紫外線が見え、蝙蝠にはヨタカの見えないものが見えるという例が紹介されている。すなわち、感覚運動器官によって認知する現実は異なる。右上象限が認識に影響を与えるのである。

そして、第9章「進化の道程とナチュラル・ドリフト」P287にこう書かれている。

生物と環境の共決定(相互特定)に関するこの主張を、知覚の異なる生物が世界を別様にみているだけのことだとする、より常識的な見解と混同してはならない。この見解は、世界を所与のものとした上で、それが多種多様な視点から眺められる、と認めるだけなのである。われわれの論点が根本的に異なるのは、生物と環境が多くのやり方で相互にかかわり、ある生物の世界を構成するものは、構造的カップリングの歴史を介して行為から産出されると主張するからだ。



そして、ここを読んで・・・

単に現実に対する視点が多様であるという意味ではない。現実への見方によってそれぞれ解釈が異なるのだということではない。

そうではなく、現実は複雑系である。

ということをいっているのだと直観した。

複雑系とは

個の行いがその系全体に影響を及ぼし、また全体の変化が個に影響を与えるという系のことである。分かりやすい例として株式市場などが引き合いに出されたりする。

過去に行くタイムマシンが絶対できない理由も、世界が複雑系であるからだと以前から思っていた(並行宇宙という考え方は別として)。

それはともかく、現実とは「複雑系」だったのだ。

そのような構造をもつものなのだ。これは私にとって、とても大きな気づきである。

そして、第10章中道(p314)にこうある。

完全な共依存性(より適切に言えば、共依存性以外の考え方への反論)を説くナガールジュナの議論は、三種類への主題へ適用される。主体と客体、事物と属性、原因と結果である。彼はこの手段により、非共依存的な存在という考え方をほとんどあらゆるものに対して退けている。・・・ナガールジュナは、最後にこう結論する。「依存せずに生起されるものは何もない。ならば空でないものは何もない」と。



続いてP315にナガールジュナの議論を要約し、こう書かれている。

われわれの経験において、この独立性という究極の判断基準を満たすものは何もない。初期アビダルマ(論蔵:仏教教理の三蔵の一つを形成する経典を集めたもの)の伝統では、この洞察は縁起と表現されていた。生起、形成、滅びを免れるものは何も見出しえない。現代的なコンテクストでは、この論点は科学においても、物質世界の表現として用いられている。ナガールジュナは、共依存性の理解をさらに深めた。原因と結果、事物と属性、問いかける主体の心と心の客体は、いずれも「同等に」互いに対して共依存的である、と。



そしてヴァレラはいう。

彼(ナガールジュナ)の分析は、非常に緻密な議論であり、万物は万物に依存するという通俗的な紋切ことばではない。ナガールジュナによるアビダルマの拡張により、経験に対して決定的な違いが生じるからである。(p316)



私は

経験に対して決定的な違いが生じる

に線を引き、特に経験を○で囲んだ。

そしてこのように続く

なぜ、経験にとってそれがとても重要になるのか?
世界と自己が永続的であると誰かが考えたとしても、それが瞬時に変化するものであるならば、どうなるのか?
両者が分離していると誰かが考えたとしても、互いに他方に依存し合っているのならば、どうなるのか?
・・・
心と世界がその相互依存的な連続性において生起し続けるとき、心の側にも世界の側にも、知るべきものやさらに知られるべき余分のものは何もない。起こりうるどんな経験も開かれていて、そのあるがままに顕れる。(P317)


すなわち、現実とは自己と世界の間で共創される複雑系であるということだ。

私は今まで相互依存性を右下象限の性質であると何となく理解していたのだ。しかしそうではなく左上象限との間で共同創造されるものなのだ。

縁起のことをdependent co-arisingと表現し、それを相互依存的連携生起と翻訳した本を10数年前に読んだことがあった。以降、縁起のことをそのように解釈してきたのだが、今回ここで焦点とされているのは、「心と世界の相互依存的連携生起」なのだ。

数年前、色即是空、一切は無自性であり空であるという般若心経の教えが、どうして励みになるのかと疑問に思っていた。

しかしこれではっきりした。このような理由で励みになるのだ。

いまあなたの前に現れている困難に見える事象は、客観的事実として外側に独立して存在しているのではない。その実体は空なのだ。

その事象に対する経験は、共同創造される複雑系なのである。

これは単に見方の問題なのではない。視点だけの問題なのではない。解釈の問題なのでもない。

いままで見ていなかったものに注意を馳せ、耳を澄まし、心がけや接し方を変えるなら、現実は再創造されるということだ。

心と世界はその相互依存的な連続性において生起し続ける。

複雑系としての空を理解し、経験の質を変えることは可能なのである。