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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

すでにそうであることこそ破線ではなく、実線。

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あらゆるモノやコトに内在する「無根拠性」にどのような姿勢で臨めばよいのか?ということを考えていました。

この「無根拠性」は、以前David Loyの著書から引用して「絶えまない欠乏の感覚(a sense of lack)をもたらすもの」

絶えまない欠乏の感覚(a sense of lack)をもたらすもの - ウィルバー哲学に思う


で取り上げた「無根拠性」です。

私たちが漠然と常に感じている「欠乏の感覚」は、この「無根拠性」から来ているのです。

これはすべてのものが共依存的(相互依存的)であるためです。フランシスコ・ヴァレラの「身体化された心」p314にこう書かれています。

ナガールジュナの論点は・・・事物は共依存的に発生する、つまり完全に無根拠なのである、ということなのだ。
完全な共依存性を説くナガールジュナの議論は、三種類の主題へと適用される。主体と客体、事物と属性、原因と結果である。彼は、この手段により、非共依存的な存在という考え方をほとんどあらゆるものに対して退けている。それぞれの感覚の主体と客体、物的対象、基本要素(土、水、火、空気、空間)。激情、攻撃、無知、空間、時間、運動、作用体、その行為、その為す事柄、条件と成果。知覚者、行為者または他の何かとしての自己、苦、苦の原因、苦の消滅、消滅への道(四聖諦として知られる)。ブッダと涅槃。ナガールジュナは最後にこう結論する。「依存せずに生起されるものは何もない。ならば空でないものは何もない」と。



この部分を書き写しているうちに、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)に出てくる関係フレーム理論を思い出しました。
(以下、「ACTをはじめる」スティーブン・C・ヘイズ著P32~P33より抜粋)

物事を関係づけて考えることができるという能力のおかげで、私たちは自分自身の環境を自覚的に分析し、道具を発達させ、火をおこし、芸術を生み、コンピューターを作ったのです。・・・しかし、この同じ能力のために、苦悩も生み出されることになりました。
・・・
私たちがモノやコトを考えるとき、別のモノやコトと関係づけていきます。・・・こうしたシンボルが関係づけの広大なネットワークに取り込まれていき、私たちのマインドは生み出され、生涯にわたって拡大していくのです。以下に示したのは関係フレームのリストです。
・等位のフレーム(~と同じ、~と似ている、~のような)
・時間、因果のフレーム(前と後、もし~ならば、~による、~の元)と結果
・比較、評価のフレーム(~より良い、~より大きい、~より早い、~より美しい)
・対象指示のフレーム(私/あなた、ここ/あそこ)
・空間のフレーム(近い/遠い)


この関係フレーム理論でいう「等位のフレーム」、「比較評価のフレーム」、「空間のフレーム」はナガールジュナのいう「事物と属性」に対応し、「時間因果のフレーム」はナガールジュナのいう「原因と結果」に対応し、「対象指示のフレーム」は「主体と客体」に対応させることができるのではないでしょうか。

このようにすべてのモノやコトは他のものと関係づけられます。それは言いかえれば、共依存的(相互依存的)であり、空であるということです。ですから地に足をつけることのできないgroudlessness(無根拠性)を感じるのです。

私たちは今この瞬間にその無根拠性を漠然と感じていますので、習慣的に無意識に、未来に根拠のあるもの、はっきりとした「形」あるものを見出そうとします。

それを実現することを希望に、現在の不足感、空虚感を何とか凌ごうとするのです。

それは、今この瞬間ではないところに「形」をつくることです。

例えば計画や、ビジョン、目標、方針などを明確な「形」として描き、今この瞬間をその「形」に近づけようとします。

その近未来の「形」にこそ、リアルで信頼でき、安らげるものがあると想定しているのです。

ここではないどこか別のところにあるモデルに理想「形」があると想定するのです。

この習性は、今この瞬間を破線として位置づけることに他なりません。今ここは暫定的なものとして見ているのです。

今ここは仮の姿になり下がっています。

しかしこれは、じつは反対のことをしているのではないでしょうか。

今ここは、すでにそうであるもの、すでにそうであることとして実現しています。それは確かなひとつの実現された「形」なのです。

そこが、じつは実線なのではないでしょうか。

そして未来は不確実でいいのです。

形を決めてしまいたい衝動を感じたら、むしろぐっとこらえるのです。いやその決めてしまいたい衝動に気づけばよいのです。

そして、あえて不確実なまま、不確実な破線にしておくのです。

「不測に立ちて無有を遊ぶ」です。

近未来の「形」を、ある意図をもって決めてしまうことは、その「形」とのギャップが生じたとき、苦しみを生じます。

未来を実線にして、今この瞬間を破線にしてはいけません。

今この瞬間こそ、すでに実現され、地に足のついたた実線なのです。

未来は破線にしておきましょう。未来は不確実でいいのです。

これが柳生新陰流「無形の位」の意味なのではないでしょうか。

「悪い無限」を空なる心の自由へと反転する、それは「無形の位」 - ウィルバー哲学に思う


最初は今回のブログの表題を「あえて無根拠性の観察者にとどまり、無形の位を保つ」にしようかと考えていました。

それでもよかったのですが、イラストのような絵がイメージとして浮かんだので、それを残したいと思い、こうしました。

すでにそうであることこそ破線ではなく、実線。

折にふれて思い出し、今この瞬間の実線を実践したいと思います。(笑)

※私のPCのお絵描きソフトの性能では破線が描けないため、イラストでは実線を薄く表示することで破線を表現しました。ご了承ください。