ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

人生の繰り出してくる問いに意味を見出しながら生きる

生きていく意味が分かりません、生きていく意味があるのでしょうか?と、もし尋ねられれば自分はどう答えるだろうか。

1ヶ月ほど前の研修をきっかけに、ぼんやりとそんなことを考えていたのですが、山田邦男氏の「フランクルとの〈対話〉苦境を生きる哲学」と「それでも人生にイエスと言う」(V・E・フランクル著 山田邦男/松田美佳訳)を読んでいて、「そうだった、そうだった」とあらためて思いました。

そして、それとともに「新たな発見」がいくつもあったのです。

まず「そうだった」と思ったのは、次のことです。

(以下引用)
あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま私の前に座っていました。・・・二人は、声をそろえて言いました、自分の人生には意味がない。「人生にはもう何も期待できないから」。二人のいうことはある意味では正しかったのです。けれども、すぐに、二人のほうには期待するものがなにもなくても、二人を待っているものがあることがわかりました。・・・そこで大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。それは、ものごとの考えかたを180度転換することです。その転換を遂行してからはもう、「私は人生にまだなにを期待できるか」ということはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのよう仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。(「それでも人生にイエスと言う」p26,p27)


そうでした。問うているのは人生の側で、私たちは問われている存在として自分でその意味を見出して行かなければならない、ということです。

そして、いくつもあった「あらたな発見」の内のひとつとは、その問いは人によってその時々によって異なるため、普遍的な応え方などない、ということです。

次のように書かれています。


ところで人生が私たちに出す問いは、たんに、そのときどきに応じてちがったものになるだけではありません。その人に応じてもまたちがったものになるのです。人生が出す問いは、瞬間瞬間、その人その人によって、まったくちがっています。


そして、大変わかりやすいたとえとしてチェスの話が出てきます。


ですから、生きる意味の問題は、まったく具体的に問われるのでなければ、誤った取り上げ方をしているということもわかります。つまり、それは、具体的な「ここ」と「今」において問われるものでなければなりません。・・・それはたとえば、チェスの世界チャンピオンにインタビューして、「ところで先生、どういう手が一番いい手だとお考えでしょうか」と尋ねるようなレポーターの質問がとんちんかんなのとおなじです。そもそも、まったく特定の、具体的な勝負の局面、具体的な駒の配置をはなれて、特定のいい手、そればかりか一番いい唯一の手というものがありうるでしょうか。(同書p29)



このように人生の状況というチェスは一コマ一コマ変わっていき、そのたびに「さあ、あなたは次どう行きますか?」と問われているのだということです。

フランクルによると、われわれは誰でも「自分の人生を生きがいのある人生にしたいという欲求」をもっているといいます。フランクルはそれを「意味への意志」と呼び、人間の最も根源的欲求であり、満たされないと実存的欲求不満になる、あるいは実存的空虚感を抱くのだと山田邦男氏は書かれています。(これはDavid Loyのいう「空性の抑圧」に近いものがあります。

お金への強迫観念は空性への抑圧から - ウィルバー哲学に思う


この意味への意志が満たされるにはコペルニクス的転回が大切であり、それによって創造価値、体験価値、態度価値が実現されうる。そしてこれらの価値実現は、フランクルがいう「精神的無意識」に基づくものである、と山田氏は続けておられます。

この「精神的無意識」とは何でしょうか?

私は山田氏の解説を読んで、フランクルが「精神的無意識」と呼ぶものは、ウィルバーのいう

見られることのない主体としての目撃者

のことなのだ、というように思いました。

山田氏は聖典ヴェーダからの引用で

『見るものは見られず、聞くものは聞かれず、考えるものは考えられない』

と書かれており、すなわち意識され得ない領域のことをフランクルは「精神的無意識」と呼んでいます。

このヴェーダの引用と同様のことに関して、「もの」を「主体」という言葉に置き換えればわかりやすいと以前このブログで書いたことがあります。

「見られるものは見るものではない、そして自由」

見られるものは見るものではない、そして自由 - ウィルバー哲学に思う

そのように変換すると

見る主体を見ることはできず、聞く主体を聞くことはできず、考える主体を考えることはできない

となります。

その

見ることのできない(しかしSimple Feeling of Beingとして感じることのできる)主体としての目撃者(Witness)

こそ、フランクルのいう「精神的無意識」なのです。

そして重要な「意味」とは、この「精神的無意識」という思考を超えた領域から浮上してくるものなのでしょう。

それは私のことばでは「マインドフルネスで包んだ後にくる洞察」に近いものかもしれません。

マインドフルネスで包んだ後にくる洞察 - ウィルバー哲学に思う


何だか頭の中でいろいろなものが繋がってきました。

人生の状況の一コマ一コマは無言の問いを発してきます。そうした無言の問いに対し、

これはどういうことか?これは私に何をしろということか?このことをどう考えればよいのか?

と自問するのです。

そしてその答えは、頭で分かるものではない、あるいは頭で分かろうとしてはいけないということです。思考を超えた深い領域から何かの折にふと浮上してくるのです。(おそらく)

この精神的無意識の典型例として、フランクルは「芸術的創造」、「愛」、「良心」を上げています。それぞれ「創造価値」、「体験価値」、「態度価値」に対応すると思われると山田邦男氏は書かれています。

興味深いですね、もっと読み込んで行こうと思います。

しかし今回のまとめとしては、まずはシンプルに

人生の繰り出してくる問いに、意味を見出しながら生きる

としておきたいと思います。


このブログが、読まれた方の何らかの人生のヒントにつながれば、私としてこんなにうれしいことはありません。