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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

どれほどそれを受け流せるのか

最近わたくしごとに関するさまざまな物事が大きく動いているおかげで、外部の関係者とのあいだで葛藤が生じる。

思いも寄らぬ一撃であったり、思わぬ人からの不意打ちのような予期せぬ形でそれはやってくる。

このことをどう考えればいいのだろうか?と昨日思いを巡らしていた。

そしてこれは、自分は問われているのだと、いうことがふと頭に浮かんだ。

前回のブログで

人生の状況の一コマ一コマは無言の問いを発してきます。そうした無言の問いに対し、これはどういうことか?これは私に何をしろということか?このことをどう考えればよいのか?


と書いた。

些細なことであるが、まさにそうした状況変化の一コマ一コマが自分の日常に起こっているのだ。

とするならば、まさに学んできたことの見せ場であるはずだ。

そう、その修養を実践する機会を得たのである。(大げさにいうと)

エックハルト・トール流にいうと「相手のペインボディの活性化に影響されて自分のペインボディを活性化させぬよう、今に在ること」の実践が大切ということになる。

フランクル流、あるいは山田邦男先生流にいうと、「事実を実存の次元に高めることが求められている」となる。

そのように思うと、心に静けさが戻ってきた。

相手の言い分の正当性をジャッジしたり、対処法を考案したりする通常の解決策は、自分にとって真の解決になりえないことはよく分かっている。

こうしたことは、表面で解決できても手を替え、品を替え、形を変えてやってくるからだ。

人生がそれを繰り出してくるともいえるだろう。

では、何をどのように自分は問われているのか?

それは自分が

「どれほどそれを、受け流せるかどうか」

が問われているのだ、と思った。

聞き流すのではない、しっかりと受け止めた上で、川に流すように流していくのだ。

(ACTの、思考を葉っぱに乗せて流していくエクササイズを思い出した。)

先入観、固定観念を持たず、曇りなき眼で相手と対峙し、そして執着せず、手放す(Letting go)。

イメージは柔道の巴投げだ。相手に反発するのでなく、相手のエネルギーを利用してそれを受け入れ、そして手放す(投げる)。・・・

やや意味深な感じが残る気がするが、まあいいとしよう。


最後に自分にもういちど問う。

あなたは、どれほどそれを受け流せるだろうか?