ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

非二元への扉、世界とぴったり重なっている私

まず、ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」の訳者あとがきで、松永太郎さんが書かれた文章を抜粋したいと思います。

(以下引用)
この非二元への開眼は、恐ろしくシンプルで、誰にでも開かれている。徹底的に「平等」である。修行したり、勉強したり、理屈を立てたり、目標を立てたり、こうしなければ、ああしなければ、という条件がついていたりするものではない。先にも述べたように、そうした思考なり修行なりは、明け渡すためにある。何かを思考している、何かを感じている、その時、この思考をしているものは何か、感じているものは何かをどこまでもたどって行けばよい。自然に「それ」へと導かれる。これがラマナ・マハリシの教えた、もっとも素晴らしい宝である。あるいはトーレが教えるように、完全に「今」に意識の焦点を当てる。その時、「自分」という物語が脱落する。


 そして「それ」を味わう(ワン・テイスト)には、ニサルガダッタ・マハラジが言うように、ただ「今、ここにいればよい」(Just Be!)。「今、ここにいる」というシンプルな感覚にくつろいでいればいい。それが本書の原題”The Simple Feeling of Being”である。それが不可得、つまり獲得することが不可能である、というのはそういう意味である。もし時間の先に「それ」を設定すれば、それを獲得することはできない。空間のどこかに「それ」を設定すれば、それを獲得することはできない。


 こんな秘密を明かして、いいのであろうか。気が付けば、最初から明白であった秘密を―。確かに、ただ聞けば何のことかほとんど意味をなさないかもしれないが、先に挙げたラマナ・マハリシ、ニサルガダッタ・マハラジ、エックハルト・トーレそしてケン・ウィルバーのような優れた師の話すことを聞き、書いたものを読み、その方法を試みてみれば、その核心は、すぐにわかるのである。


・・・ さて、その秘密とは、「あなたは、常にすでに、それである」というものだ。あなたは、それに気が付いていないのではない。いてもいなくても、常に「それ」なのである。つまりあなたの眼は、最初から開いていたのである!あなたは自分の眼で、自分を見ようとしていたのだった。


では、「それ」とは何か?ウィルバーがよく使う「スピリット」(Spirit)も、あるいは至高神(Godhead)も、「ブラフマン」も、「心」も、この「それ」、すなわち「二番目のない一」を表わす表現である。プラトンの言う「遍満する神」、ウパニシャッドの「円満」(fullness)、それが「二のない一」(one without a second)である。それは一方では、一切の属性や性質から離れ、現象として現れず、時間と空間からも離れているので、「空」(Emptiness/Sunyata)とも呼ばれる。本書には「スピリットが顕現する」という文章がよく出てくるが、それはまったく属性をもたない「空性」が、そのまま眼に見え、耳に聞こえるような形、あるいは現象となっている、という意味である。この意味では「形」とは現象であり、「空即是色」という時の「色」である。「空性とは、そのまま色である」という般若心経の言葉と、「スピリットが顕現する」という言葉とは、同じ意味である。(引用ここまで)


これは今まで幾度となく読み返してきた文章です。非二元への開眼を解説した松永さんのすばらしい文章ですが、以前は、赤字にした部分、いったいなぜ「不可得」なのか?そしてなぜ「常にすでに」なのか?よく分かっていなかったと思います。


しかし、P200に書かれているゾクチェンのポインティング・アウト・インストラクション(非二元ポイントアウト)に関する記述を読んで、「意識(awareness)」という言葉にピンときました。 以下引用します。

(引用)
ヴェーダンタ・ヒンドゥの教えには同じものがある。・・・私流に書くと、常にすでにあなたが意識しているもの、それは意識それ自体である。私たちは起こっていることすべてを目撃する、という能力としてそれを備えている。ある禅の老師が言ったように。

「鳥の声が聞こえるか?日の光が見えるか?悟っていないものなど、どこにいるのか?」私たちの誰もが、基本的に意識のないところなど、想像することもできない。というのは、想像という力のなかにすでに基本的な意識は働いているからである。夢の中ですら、私たちは気が付いている。

さらに、これらの教えは言う。悟った意識と悟っていない意識があるのではない。あるいのはただ意識のみ。そしてこの意識こそ、まさに、正確に、修正も変更もなしに、「スピリット」そのものなのである。なぜなら「スピリット」のないところはないからである。
したがって、指示、教えは告げる。意識を認識せよ。目撃者を認識せよ。「自己」を認識せよ。そしてそれをそれとして受け入れ、それに安住せよ。意識を獲得しようとするのは、無駄な試みであり、ポイントをはずしている。「でも、わたしはまだ「スピリット」が見えない!」「見えないということにあなたは気づいている。その気づき、意識が「スピリット」なのだ!」
・・・デパートのショーウィンドウをのぞいてみる。おぼろげにこちらを見つめている影がある。あなたはその影をもっと良く見ようとする。あなたは、それが自分自身であることに、驚きとともに気が付く。全世界は、これらの教えによれば、あなた自身を鏡に映した姿なのである。その姿とは、あなたの意識である。そう、あなたはすでにそれを今、見つめているのだ。(引用ここまで)

このショーウィンドウの喩えは抜群ですね。このことを言い換えるのにふさわしい表現を、「ウィトゲンシュタイン〜「私」は消去できるか〜」(入不二基義著)に見つけました。 「世界とぴったり重なっている私」です。引用します。

(引用)
〈私=私の世界=世界=生〉という等式が成立していることになる。このような等式が成立するような「私」とは、もちろん、世界の内の一人物ではないけれども、世界の外から世界を眺めたり、コントロールしたりできる超越的な神様のような存在でもない。「私」は、世界の内にいるのでも外にいるのでもなくて、世界とそして生とぴったりと一つに重なっている。(P43)
「私」は「世界」の内なる対象でも「世界」の外なる超越者でもなく、むしろ「世界」そのものなのである。(P46)
(引用ここまで)


意識のなかに世界は生起します。眼を閉じてみればそれがよく分かります。視覚は情報が多すぎるので聴覚で試してみると良く分かります。聞こえる音があり、それがきっかけとなって思い浮かぶ思考があり、それに伴って生じる衝動や感情があります。

私の意識というフィールドのなかで世界の物事は認識されます。いま見ている実際の地理的な空間をこえて想像することもできますし、過去から未来への時間を見通すこともできます。意識の及ぶ範囲の世界は、すべて意識という開かれたフィールドのなかで生起しているのです。

私たちは外の世界を見ていると思っていましたが、それは私たちの意識のなかに生起している対象としての世界を見ていたのでした。それは意識という鏡に映った、私の意識のコンテンツとしての世界だったのです。
いつからということではありません。誰でも気が付いたら「すでに」そうなのです。そしてこれは移り変わる状態ではないので「常に」そうなのです。であるから「不可得」というのです。であるから「悟っていない者などいない」というのです。
また折に触れて、この非二元についての洞察を深めていきたいと思います。


今日のタイトルは
非二元への扉、世界とぴったり重なっている私
にさせていただきます。