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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

ありのまま、起こるがまま、そして「あるがまま」

Let it goまたはLet it be あるがまま ACT 認知的フュージョン

「あるがまま」とは、「ありのまま」、および、「起こるがまま」を含んで超えているのだと思いました。

まず、「ありのまま」とは、何でしょうか。

それは、ベールを通さず、無濾過のリアリティを見ることです。

私たちヒトは、「関係づける能力」を発達させ食物連鎖の頂点へと進化してきましたが、一方で不安や怖れを増幅させてしまうという副作用を背負いこみました。

そうした傾向が組み込まれていることに気づき、固定観念や先入観をもたず、曇りなき眼で事象を見ること、これが「ありのままに見る」ということです。

しかしこれには、まだ微妙な二元論が存在しています。

見るもの(主体)と見られる事象(客体)という二元論です。

概念や過去の経験によって条件づけられた評価というフィルターを通さないものの

見るものと見られるものという区別が残っているのです。


では次に、「起こるがまま」ではどうでしょうか?

(外で生じる現実について起こるがままに受け入れることなどできないという思いから)これまでこのブログでは、主に内面の経験に適用して「起こるがまま」を考えてきました。

すなわち、不安、心配、恐れという感情が生じたとしても、回避せず、それをどうこうしようとしないこと。

格闘するのをやめ、それとの綱引きのロープを手放すこと。

Letting go. 「何もしない」をするというACTでいうアクセプタンスの姿勢です。

しかしこれにも、内と外という二元論が存在していたのだと、あらためて気づきました。

いつも意識する枠組みに内と外という境界が存在していたのです。

以上をまとめると、外側での事象に対しては「ありのまま」にこれを見、内面での経験に対しては「起こるがまま」に受け取ること、が大切であると考えてきました。(望ましい態度であると今も考えています)

「ありのまま」は、ACTでいう「脱フュージョン」であり
「起こるがまま」は、ACTの「アクセプタンス」であるといえます。

それに対し「あるがまま」とは、何でしょうか。どのように位置づければよいのでしょうか。

人によっては、あるがままをありのままと同じニュアンスで、起こるがままをあるがままと同じ文脈で使ったりするのですが。

今朝、「あるがまま」とは、さらにもうひとつ次元を上がったものではないか、と思われました。

映画、「禅」で描かれた道元のいう「あるがまま」・・・。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷し(すずし)かりけり



これは、道元が非二元の境地を詠ったものですが

世界のSuchnessを主客合一の形で経験するという禅の究極の境地です。

「ありのまま」では、まだ残っていた主体と客体という区別は消え去っています。

「ありのまま」を含んで超えた非二元の経験によってこそ、「あるがまま」といえるのではないでしょうか。

そして、「起こるがまま」には内外の区別が残っていました(私の場合ですが)。

この「起こるがまま」を、内と外という境界を超えた無境界に昇華してこそいえる経験が、「あるがまま」なのではないでしょうか。


朝、ゴールデンウィークの最後に、ふとそう思ったので書きとめました。

ありのまま、起こるがまま、そしてこれらを含んで超える・・・あるがまま