ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

どうすべきか分かっていようとしない

ガンガジの著書の「どこまでも心を開く」という章のなかに、私たちには、「いろいろなことをあれはああすべきだとか、これはこうするべきである、というように分かっていたい」という無意識の願望がある、というようなことが書かれている。

私たちは、とにかく世界の繰り出してくる問題についてなんとか対応できるよう用意をしておきたいのだ。

それは根本には生存を脅かす外的な事柄への怖れがあり、自分にとって好ましくない事柄が起こるのを予防したり、無難に回避したりしたいためである。

であるから、いつも無意識に、何が起こってもどうすべきか分かっていようとするのだ。

卓球で、右のロングに打ってこられたら、ロビングで返そうとか、左のショートに打ってこられたら、ツッツキだなどと考えて身構えるのと似ている。

どこに球が飛んできても、返せるように頭でシミュレーションし、身体にもそう反応してほしいのだ。(実はそんなふうに身構えていると身体は自然な動きで反応することは難しい)

しかしこの無意識の願望が、世界に対する自分という関係を強化し、世界と自分が分離しているという思いを強めてしまっている。そのことに気づこう。

ガンガジはパパジ(プーンジャ)のもっとも尊い教えの一つは「止めなさい」という教えであったと書いている。すべてのことを止めなさい。

すなわち、あれこれ分かっていようということも止めなさい。

そしてそうした無意識の願望の奥底にある静けさにただとどまるのだという。

静けさにただとどまる。

試してみた。

身体的な変化としては、しばらくしてある時から息が大きく出て行き、どこにこんな息が入っていたのかと思うほど、息が出る。

その後呼吸が深くなり、腹の下から胸までが連動した呼吸が自然とできるようになる。

無意識に身構えていた身体の力が抜けたのだ。

息を吐きながら力を入れることはできない。

大きく息を吐くことができることは、身構えていた筋肉の緊張を解くことなのだろう。

私たちはいつも身構えているのだ。

こころを開いて、世界と自分を混ぜ合わせよう。

マインドの底にある静けさに意識を向けて、そこにとどまろう。

いつの間にかどうすべきか分かっていたいと身構えてしまっていることに気づこう。

どうすべきか分かっていようとしない

これを意識的に実践したいと思います。