ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

概念としての自己と脱同一化する時間をもつ

最近、ルパート・スパイラの「プレゼンス」という本をとても興味深く読んでいます。

Presenceは「現存」と訳されています。ウィルバーの著書の多くを訳された松永太郎さんはPresenceを「現前」と訳しました。文脈によって「いまここ」とも表現されていました。

「いまここ」というと、この瞬間の刹那であり、目の前の狭いスペースとしての「ここ」を指すように聞こえるかもしれませんが、Presenceとしての「いま」は過去と未来を包含する「永遠の今」であり、Presenceとしての「ここ」は小文字のhereとthereを含むいわば大文字のHereであり、「無限のここ」のことであります。

スパイラの著書「プレゼンス」のPart3「分離した自己の源」という章の「活動であり実体ではない分離した自己」という節の中に次のような文章が出てきます。(p123より引用)

これまで見てきたように、思考がなければ抵抗や模索もなく、架空の内側にある自己も存在しません。内側の自己がなければ、外側の対象物、世界、他者もなくなります。それらは誤った信念というコインの表裏だからです。


この「架空の内側にある自己」とはACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)でいう「概念としての自己」であり、エックハルト・トールのいうエゴであり、普段私たちが自分と考えている自分です。私たちはこの内側にある自分になにげなく重心を置いています。

そしてこの「内側の自己」すなわち「概念としての自己」がなければ、外側の対象物、世界、他者もなくなります。と書かれています。

全くその通だ・・・、と思いました。

そして以前書いたブログ「今日一日をどういう状態で過ごすか?Presenceの持続。」の画像に白抜き部分として「概念としての自己」、「世界」、「他者」を加えればいいのだ、と腑に落ちたのです。

私たちは普段、属性をもった「概念としての自己」に同一化しています。そしてそれは同時に他者との間に境界を創り出します。世界あるいは対象物(object)についても同様です。私たちは「概念としての自己」を主体(subject)と考えていますので、世界や対象物は外側にあるobjectとして認識します。自分とそれらとの間に境界を引いているのです。

でありますから、逆に「概念としての自己」と「脱同一化」することで、それらとの間にある境界は消滅するはずです。

このことをスパイラはp123で書いているのです。

では脱同一化したのち、重心はどこに置けばよいのでしょうか?

もちろん背景としてのであるPresenceです。

朝、仕事を終えた後、夜、眠る前の時間、そして休日などは特に意識して、概念としての自己と脱同一化する時間を持つよう心掛けたいと思います。

それは不思議の時間です。

死の前にはこうした時間に包まれるのでしょう。

概念としての自己と脱同一化する時間をもつ

今日は土曜日です。日常の意識から切り換えて、そうした時間を持ちたいと思います。