ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

スクリーンのような自己の本質

ウィルバーは著作の中で、映画のスクリーンを見ている観客の立場という喩えで、観察者としての自己(Witness)を解説していますが、前回紹介したスパイラのPresenceの中でも、自己の本質をスクリーンに喩えて解説している部分があります。

読んでみて、これは上手いな、と思いました。


以下に紹介させていただきます。(以下「プレゼンス」P43より引用)

私たちの自己に対する理解は、何を信じ、感じるかに根ざしていると言ってよいでしょう。私たちはこれまで、限界のある体、心(マインド)に私たちの存在を預けてきました。ちょうど、映し出される映像にスクリーンそのもの覆い隠されてしまうように、私たちの本質的な存在は、体と心(マインド)の性質に覆い隠されてしまったかのように見えます。

スクリーンに青空が映れば、スクリーンは青くなったように見えます。けれど、青は一時的にスクリーンを彩るだけで、その青さはスクリーンの本質と何ら関係ありません。私たちの存在も同じように、心(マインド)と体の性質に色づけされてしまい、その性質に実際なってしまったかのように思われるほどです。

スクリーン自体は無色で、だからこそ、何色に染まることもなく、さまざまな色を受け入れることができます。同じように、私たちの本質的な存在は、客体をもたず(objectless)、透明で、開かれた、空(くう)の、気づいている現存(aware presence)であり、体や心(マインド)に属する客観的な性質はもち合せていません。まさにそうであるからこそ、私たちは、思考、感情、知覚になることなく、あらゆる思考、感情、知覚を受け入れることができるのです。

どんな映像でもスクリーンの光によって輝くように、思考、感情、知覚は、それらの特徴に関係なく、私たちの本質の光によって照らされ、つまり知られ、何よりもまずその光とともに輝いています。

映画の上映が始まると、私たちはスクリーンの存在を忘れ、映画に集中します。実際スクリーンは映像になったように見えます。私たちの本質的な存在にもこれと同じことが起こります。思考、感情、イメージが存在を乗っ取ったかのように見え、それらとの区別ができなくなってしまうのです。

このように、思考、感情、イメージ、感覚の集合体と自己の混同が深く根を下ろし、文化や教育がそれを後押しすると、こうした思考、感情、イメージ、感覚のコラージュこそが自己なのだと考え、さらに問題なことに、そう感じるのが当たり前になります。
(引用ここまで)


いかがでしょうか?スパイラのこの喩えでは、透明無色のスクリーンが自己の本質であり映し出される映像は自己ではありません。それは一時的に映し出された客体であり、それを自己とみることは自己の本質と概念としての自己の混同なのです。

映し出される映像は「色即是空」の「色」であるとも言えます。「色」は無常です。一方スクリーンは何が映し出されようと永遠不変です。それは「空」です。

ウィルバーの表現を借りるなら、スクリーンはスピリットです。梯子の最上段であるとともに、全ての存在の基礎、ベース、基盤です。

いままでよく「青空」の喩えをよく使ってきましたが、さまざまで一時的な映像を映し出すこのスクリーンの喩え。これから幾度となく使うことになると思います。

今回は スクリーンのような自己の本質 でした。