ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

「万法に証せらるる」素晴らしき哉、人生!

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前回取り上げた「素晴らしき哉、人生!」の映画について書きます(ネタバレ注意です)。

原作はフィリップ・ヴァン・ドーレン・スターンという作者のTHE GREATEST GIFTという短編のようです。

ネットで調べてその日本語訳を読みましたが、映画と原作はかなり違います。原作には、8000ドルを紛失して「もうだめだ」と思った下りや、友人たちが駆けつけてくれる感動的なエンディングの場面はありません。

映画を観て私が一番、この作品は・・・、と思ったのもそのエンディングではなく、元の世界に戻ったジョージ(主人公)がそれだけで、お金の問題は全く解決していないにもかかわらず、つまり彼を取り巻く状況は、彼が絶望した以前の状況と一切変わっていないにもかかわらず、彼は、この世界に戻れたことに歓喜し、出会う人、友人、犬、まして自分を罠にはめた宿敵ともいうべき人に対してさえ愛おしさを感じて、溢れんばかりの笑顔でメリー・クリスマス! と走り寄り、声をかけて回ったところです。

彼を取り巻く状況は、何も変わっていないにもかかわらず、なぜ彼は歓喜した、いや歓喜できたのでしょうか?

エンディングのクライマックスで見終わった瞬間には忘れてしまいそうになりましたが、ジョージが生きることに絶望した理由は、8000ドルの紛失でした(1946年の映画ですから当時にしては大金です)。エンディングでは皆が駆けつけその問題が解決するのですが、ジョージの喜びはすでにその前にありました。言い換えれば、8000ドルの問題が解決しなくても、彼は感謝と喜びに満たされていたのです。

なぜでしょうか?

映画では自殺を試み、「生まれてこなければよかった」と言うジョージに対し、翼のない天使が、彼の願いを叶えます。彼の願い通り、「彼の存在しなかった世界」に彼を放り込むのです。

そこで彼は、自分が存在しなかった世界を体験します。そこでは友人は彼に気づきません。彼のことを誰も知らないのです。世界はずいぶん彼の知っている世界と違っていました。彼のいた世界よりも荒んだ世界です。弟は亡くなっていました。叔父は精神病院に入っていました。バイト先の店主は犯罪者として軽蔑されていました。

この天使のみせた「彼の存在しなかった世界」を体験することで、彼は自分が周囲に何を与えてきたのかを知っていきます。その時の記憶がよみがえり、その時の自分の行為がなかったなら世界はこう変わっていたんだということを実際に見ていくことになります。

そして、自分という存在がない世界と、自分という存在があってこそ成り立っている世界の違いを認識することができたことで、8000ドルの資金繰りがつかず破綻することなど、その世界が失われることに比べれば、些細なこと、どうでもよいこと、であると感じることができたのではないでしょうか。

分かりやすい例が描かれています。彼が子どもの頃にアルバイトをしていた店で店主が(わが子を亡くした悲しみで呆然としていて)薬と毒を間違えて処方してしまいます。その薬を届けることになっていたジョージはそのことに気づき、お客さんに渡さなかったのでした。

彼の存在していない方の世界では、その店主は、その毒を販売した罪により一生を犯罪者のレッテルを背負って生きていました。彼の子どもの頃の行いは、店主を救っていたのでした。

また、勲章をもらった弟は、彼の存在していない方の世界では、幼くして亡くなっていました。川に落ちて命を落としていたのです。ジョージのいた方の世界では、川に落ちそうになった弟を、彼は助けたのでした。

このようなことが、いくつもいくつも分かってきます。「ああそうだったのか、ああこれもそうだったのか」と。

彼は、自分など存在していても仕方ない、自分なんていない方がいい、自分がいなくても世界には関係ない、と思っていたのですが、それはまったく間違っていたのでした。

私は、自分という存在が「閉じられた存在」ではなく、「関係存在」であることにジョージが気づいたのではないかと思います。

自分とは、自分がどうあろうと世界には関係ない、というような独立して「閉じられた存在」なのではなく、自分という存在は世界から影響を受け、かつまた世界に影響を与えうる相互依存的な「関係存在」だということです。(関係存在という言葉の一般的な概念にあっているかどうかわかりませんが)

それは、ティクナットハンのいう、インタービーイング(Inter Being)です。

映画では、分かりやすくするため、ジョージから直接の相手に対する影響しか取り上げていませんが、実は弟のハリーが生きていれば、弟は勲章をもらったほどに活躍した人物ですから、その弟がさらに誰かを助け、また多くの人々に勇気と希望を与えていたはずです。

ジョージがいなければ、彼の子どもたちも存在しないことになりますが、彼がいて妻メアリーとの間に授かった4人の子どもたちは、さらにさまざまな人を支えたり励ましたりして影響を与えていくに違いありません。その子どもたちの友人に、成長したらその恋人に、指導者になったらその生徒に・・・。

その愛の連鎖は無限大です。

この自分のいる世界と自分は一体である。自分が存在しないとしたら、その世界は全く別の世界である。自分の人生があって、それが影響し合って、自分のいる世界を作っている。であるから私=人生=世界なのだと。

そのことは、取り立てて素晴らしい行いの結果や偉大な活動の業績によるものだけではありません。些細な言葉や態度、表情といったものによってでも大きなものを「与える」ことができます。

それがヴィクトール・フランクルのいう「態度価値」ではないか、そんなことも思いました。

これを書いている今、ふと頭に浮かびました。

道元のいう「自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり」とは、実はこのことではないでしょうか。

ネットで探してみると今浮かんだイメージを上手に表現されているブログがありました。
http://blog.jinseimondainokaiketsu.com/?day=20100225

自己という存在が「世界(万物)によって裏打ちされる」ことが、万法に証せらるる、ことであると考えてよさそうです。

ジョージが、「世界にとって、なくてはならない存在である自己」を、リアルに実感したのが、あの歓喜だったのだと思います。

自分がどれほど自分の存在した世界を愛していたのか、彼はそのことに気づいたのではないでしょうか。

そしてその世界を失いたくない、天使のみせている自分のいない世界から、元の自分のいた愛おしい世界へ戻りたい、そう心の底から願ったのでしょう。

そして元の世界、顔なじみや友人のいる世界、宿敵もいれば、愛すべき家族のいる世界、その世界に戻れた、それがあの歓喜なのです。

その世界は彼という存在抜きには、存在しない世界でした。彼=人生=世界だったのです。

素晴らしき哉、人生。それは「万法に証せらるる」リアルな実感なのだと思いました。