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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

必ずしも意図していないものを読み解くという楽しみ方

脳内ポイズンベリーという映画を観た。


若い男女の三角関係がストーリーの恋愛映画で、映画館も若い人が多く、少々気恥ずかしい感じがした。
にもかかわらず、わざわざ見に行こうと思ったのは、主人公の脳の中にポジティブ、ネガティブ、衝動、記憶、そして理性という5人のメンバーが棲んでいて、その5人が会議をして主人公の言動を決めているという設定に興味を覚えたからだ。
さらに、その5人の話し合いの結論が出ず、会議が紛糾してやがて、5人全員が気を失ってしまう・・・その時に何が現れたのか?という予告編にもうまく乗せられた。

いくらかは興味深く、いくらかは期待はずれであったように思う。

まず、興味深かったのは、頭の中の声を、自覚していて、それを自分ではない者の声として、描いているところだ。

一般的には自分のマインドの思考を自分自身と同一化して自覚しているものだが、映画の設定として(おそらく原作のコミックでも)他者が演じていることから、この脳内の5人は主人公自身と「脱同一化」されている。

このブログでも何回も書いているように思考や衝動を「対象」として観ることは、とても重要なことなので、その点でこの設定に共感を覚えた。

次に、記憶とネガティブの関係も興味深かった。会議では重要な意思決定を下す場合に、関連する過去の記憶が参照されるのだが、ネガティブはそれをトラウマティックにやや歪んで覚えていて、事なきを得よう、傷つくのを回避しようと反応する。これはティクナットハンのいう五蘊その4の「心的形成物」であり、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)でいう「認知的フュージョン」が生じていることをうまく表現していると思った。

そして会議が紛糾して収拾がつかなくなった時5人が気を失って、現れる者とは何かという点だが、これが残念ながらいまいちはっきりしなかった。私はACTでいう「観察者としての自己」のようなものを勝手に想像していたのだが・・・。

そこに現れた者、それは主人公の真木よう子が二役で演じていたようだが、5人の勝手なおしゃべりを無言の力でねじ伏せてしまう(?)圧倒的な存在。

主人公と二役ということから、心の奥底からいざという時に姿を見せる「本当の自分」というような解釈ができそうな(これもよく分からない曖昧な表現だが)描き方であった。

最後はこの存在が、それまでは脳内会議を多数決でしか決められなかった議長である理性の下した決断を評価し認めるという流れで終わる・・・この二役の存在はいったい何であったのか?

いろいろなレベルの解釈のできる、楽しめる映画だったように思う。

先のブログで取り上げた「素晴らしき哉、人生」も、映画の脚本としては、友人の存在の大切さを謳っているが、私が感じとったのはもっと別のテーマだった。「苦役列車」についてもそうだったのかもしれない。

このように監督や脚本が必ずしも意図していないものを読み解くという楽しみ方もあってよいように思う。