ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

二種類の現在と直接経験

入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン~私は消去できるか~』(NHK出版)のなかにウィトゲンシュタインのいう現在および直接経験についての解説が興味深かったので、ここに紹介させていただく。(以下p75~p76から引用)

物理的な事実と直接経験の違いは、二種類の「現在」の違いに相当する。「現在」の一つのあり方は、「過去−現在−未来」という区分の中の一項としての「現在」である。つまり、複数の項からなる系列上の「或る一つ」というあり方である。物理的な事実は、そういう対象化された(外から眺められた)あり方をしている。「現在」のもう一つのあり方は、それがすべてであって、それ以外のあり方がないような、絶対的な場である。つまり、隣に並ぶもののない「ただ一つ」であり、「すべて」であるというあり方である。直接経験は、そういう対象化しえない(外側から眺めることの不可能な)あり方をしている。

 ウィトゲンシュタインの比喩(注)では、前者の「現在」がフィルムの帯状に並んだコマ画像に相当し、後者の「現在」が実際にスクリーンに映し出されている映像に相当する。前者の場合には、コマ画像が並列して複数存在する。或る一つのコマ画像の左にも右にも、別のコマ画像が並んでいて、或るコマ画像を「現在の」画像だとすれば、左のコマが「過去の」画像、右のコマが「未来の」画像だと考えることができる。しかし、スクリーン上に投影されている映像の方は、それがただ一つの映像であって、その横に並んでいる別の映像などない。いま現在スクリーンに映し出され見えている映像世界が、並ぶもののない「ただ一つ」であり「すべて」である。

 直接経験は、対象化されたフィルム上の一コマではなく、現に見えているスクリーン上の映像に相当する。つまり、直接経験は、私の経験・あなたの経験・彼の経験のうちの一つとしての「私の経験」ではなく、二人称・三人称と対比しえない「私の経験」である。あるいは、直接経験は、過去の経験、・現在の経験・未来の経験のうちの一つとしての「現在の経験」ではなく、「絶対的な現在の経験」である。つまり、直接経験とは、〈それがすべてであり、それしかないような〉経験のことであり、その意味で、すぐれて「独我論的な経験」なのである。


最後の「独我論」については(前からこのブログで取り上げたいと思っているのだが)また別の機会に譲るとして、このなかで(注)ウィトゲンシュタインの比喩では…と書かれているのは以下のことである。
(p74から引用)

直接経験の諸事実をスクリーンに映っている画像と比べ、物理学の諸事実をフィルムの帯状のコマ画像と比べてみるならば、フィルムの帯状には、現在の像や過去や未来の像が並んで存在する。しかし、スクリーン上には現在のみが存在する。(『哲学的考察』V51)

(引用ここまで)


わたしたち人類は、「記憶」という脳の働きと「言葉」という道具を発明したことによって、食物連鎖の頂点に立つことができのだが、同時に他の生きものにはないような「苦悩」を背負い込んだ。

「記憶」によって、過去の経験を反省し、(以前、あの道を通ったらトラに襲われかけたので、あの道は近道だけど通らないようにしよう、というように)同じ過ちを避けるように工夫できる長所を獲得した反面、(また、トラに襲われやしないかという)いま現在起こっていない経験に対して不安や心配を抱え込んでしまうという短所をも手に入れてしまったのである。

また「言葉」によって、自分に起こった経験ではない、彼に起こった経験(彼はこの道を通っていてトラに襲われたそうだ)を参照できる(この道も通らない方がいい、ここで村人がもう3人もトラに襲われたという)反面、より一層多くの不安や心配を抱え込めることになってしまった。

わたしたちは、記憶や言葉のおかげで現在の直接経験だけではない、過去の経験、未来の経験、私の経験だけではない、あなたの経験、彼の経験を生きてしまっているのだ。

脳は(感情をつかさどる部分は)、いま現在の私の経験なのか、過去の彼の経験なのか、判断がつかない。そして扁桃体からストレスホルモンが出て、「逃げるか闘うか」という非常事態宣言をだす。今そのことは起こっていないにもかかわらずだ。これがうつ病に至るひとつのプロセスである。

過去の経験・未来の経験は観念でしかない。あなたの経験を私は直接経験できないし、彼の経験も直接経験できない。

あなたはしっかりと「今ここ」にいることができているだろうか?

あなたのこころは「心ここにあらず」の状態、すなわちマインドレスの状態(マインドフルの状態の反対)になってはないだろうか?

こころが、今ではなく、昨日、あるいは明日、ここではなく、会社、学校、あるいはもっと遠いどこかに行ってしまっていないだろうか?

思考に囚われてしまっていないか?

記憶、言葉、思考は使いこなすべき道具だが、気を付けないとそれに囚われ、振り回されることになる。

ウィトゲンシュタインの言うように

(私という)スクリーンの上には、現在のみが存在する のだ。