ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

Aware Presenceと、Ever-Present Awareness

ルパート・スパイラはその著書『プレゼンス』のなかで、「わたしとは誰か、なにか?」という問いに対して、「わたし」とは「Aware Presence(気づいている現存)である」といっています。

これと似た表現にウィルバーのEver-Present Awarenessがあります。

『存在することのシンプルな感覚』の最終章「常に現前する意識の輝くような明晰性The Brilliant Clarity of Ever-Present Awareness 」の「常に現前する意識Ever-Present Awareness」です。

私なりには何となく「意識野」という表現がしっくりきます。(専門用語として使われることのある「意識野」のことではありません。ここでは「意識のフィールド」というニュアンスのあくまでも私なりの表現です)

意識野に、思考が現れます。感情が生起します。感覚が生じます。

わたしは思考ではありません。そうした思考が起こる場です、スペースです。あるいは背景です。

わたしは感情ではありません。そうした感情が生じる開けです。空(くう)です。あるいは意識野です

これらは内外の区別をするならば、内面の出来事です。

これまでこのブログではあまり「知覚」をとり上げて来ませんでした。特に「視覚」についてはそうです。知覚は「(外の)世界」とつながっています。

目を閉じて耳を澄ますと、セミの鳴き声が、意識野に現れます。〈聴覚〉

手でコップを持つと、その冷たくツルツルした感触が、意識野に現れます。〈触覚〉

窓を開けると、むせ返るような夏の香りが、意識野に広がります。〈嗅覚〉

コーヒーを口に含むと、ほんのりとした苦味が、意識野に染みわたります。〈味覚〉

こうした視覚以外、五感の内の四感については、意識の野(フィールド)に現れる、ということが実感しやすいのではないでしょうか。

しかし視覚については、どうでしょう?

ウィルバーは、わたしは部屋のなかにいるのではない。わたしの意識のなかに部屋があるのだ、といいます。

そう、それはイメージできます。しかしイメージです。

実際に目を開けると、わたしは部屋のなかにおり、窓から、空と雲と緑が見える…となってしまいます。

これでは何かうまくいきません。これは違うでしょう。「わたし」と「わたしの体」を同一化して部屋のなかにいると捉えているためです。

設定を変えます。

夜です。夜空を眺めています。月が出ています。意識野に光っている月が現れました。

星が瞬いています。意識の野に大小、赤青緑、さまざまな星が現れたのです。〈視覚〉

これで、OKです。

このように知覚は五感によって世界を捉えます。生の経験としては、世界は知覚であり、五感を通して意識の野(フィールド)に生起するのです。

こうして意識野に現れるものは、そこに映し出されるコンテンツです。

意識野をスクリーン(空「くう」)に喩えるなら、そこに映し出される内容は、知覚によってとらえた世界、それから思考、感情、感覚、衝動、記憶、・・・などなどの映像(色「しき」)です。

わたし=体・心であるなら、世界はわたしたちの外にあって確固たる実体を持っているように見えます。

しかし

わたし=意識の野であるなら、(知覚を通じて)世界は私たちの内に生起していると言えるでしょう。一昔前に「世界は恋人、世界はわたし」という本がありましたが、まさにその通りです。

常に現前する意識(Ever-Present Awareness)、気づいている現存(Aware Presence)、意識の野(フィールド)、実はこれはいつも私たちにあるものです。気がつけば、「常に、すでに(Always Already)」あるものです。存在することのシンプルな感覚(The Simple Feeling of Being)として。

そして、わたし=体・心でないなのなら、これこそが「わたし」なのだ、ということです。

「意識の野(フィールド)」に気づきましょう。そこに映し出されている映像だけに目を囚われるのでなく、その背景にあるスクリーンに気づきましょう。

そのような構造で、世界を、あるいは思考や感情を、経験しているのだ、ということを覚えておきましょう。

そして、そのような気づきを維持することができたとき、まさに「輝くような明晰性(The Brilliant Clarity)」が得られる、のだと思います。