ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

離れ内、近く外〜自己認識の変容〜

福は内、鬼は外


節分の豆まきの言葉であるが、家の玄関を境界として、幸福をもたらしそうなものはどうぞお入りください、不幸をもたらしそうなものはどうか外へ、という掛け声である。しかしながらそうすると、外の世界は鬼ばかりいる怖いところになってしまう。

ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」に、「非二元のもっとも偉大で、もっとも保護されている秘密がこれなのである」と書かれた文節がある(p363)。

(ここから引用)
「スピリット」を理解するのが困難なのは、それを何か意識の対象、把握の対象として見ようとするためである。究極のリアリティは、見られるものではない。それは見者(Seer)である。「スピリット」は対象ではない。それは根本的に現前する「主体」である。

「目撃者(Witness)」に安らぐ時、あなたは特に何かを探求しているわけではない。真の「見者」を見ることは、決してできない。そこで、あなたは、すべての対象から自分を引き離すことから始めるのである

わたしは、自分の身体の感覚に気づいている。これらは対象である。わたしはこれらの対象ではない。わたしは自分の心に浮かぶ思考に気が付いている。これらは対象である。わたしは、今、この瞬間のわたし自身に気が付いている。それもまた対象であり、それはわたしではない。

純粋な「目撃者」に安らぐ時、あなたは、特に何かを見るわけではない。何を見てもけっこうである。むしろ、根本的な「主体」あるいは「目撃者」として、いかなる対象とも同一化することを止めれば、あなたは広大な自由に気づきはじめる。・・・収縮した自己のかわりにそこには広大な「開け」、「解放」がある。対象としては、あなたは拘束されている。「目撃者」としてあなたは自由なのである。(引用ここまで)


このように、内なる感情や思考に対してはそれがネガティブなものであったとしても、鬼と見立てて外に追い払おうとするのでなく、それらを対象として目撃することが大切だ、とウィルバーは言う。そして自らはその見者として安らぐのである。忘れぬよう心に留めておこうと2009年の元旦に書初めしたRest as the Witnessとは、こうした意味である。

追い払おうとすればするほど増幅される。回避は苦痛を苦悩へと増幅させるメカニズムだ。あなたがバスを運転している時、鬼が何人か乗ってきた。バスから降りてもらおうとすればするほど、乗員の鬼たちは居座り、勢いを増してくる。どうすればいいか?正解は、距離をとって座り、彼らを乗せたまま目的地に走り続けることである。これはACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)で学んだとおりだ。

ネガティブなものをどうこうしようとせず、やや距離をとり、対象(客体)として眺め、自らは主体である見者として安らぐ。「内では離れ、見者に安らぐ」すなわち「離れ内(笑)」というのが本稿のひとつめのポイントである。


では外に対してはどうか?

鬼がいるようにも思える世界のことをどう捉えればいいのだろう?

私たちは、ほとんどの人が、皮膚に閉じ込められた孤立した「エゴ」として自らを意識している(かくなる私もそうである)。「私たちはこの世界に生まれ落ちた」などというが、アラン・ワッツはそうではない、そのような自己認識にこそ大きな問題があるのだという。

(以下、『ラットレースから抜け出す方法』アラン・ワッツ著から引用)

〈p22 〜極秘事項「世界は身体の延長」より〉
私たちは、生物としての私たちの存在に対する誤った、ゆがめられた感覚や幻想のために苦しんでいる。「私自身」というのは、「肉体の内側で生き、その肉体に縛られた、感情や行動の孤立した中心である―肌合いのちがう、よそよそしい世界と五感を通じて接触しながら、人々や事物なからなる『外側の』世界に『直面する』中心である」という感覚を私たちがもっているからだ。

この幻想がまっ先にもたらすものは、「外側」の世界はほとんど敵だとする態度である。

私たちは「この世界に生まれ落ちた」のではない。私たちは、樹から木の葉が萌え出るように、その“世界”から生まれたのだ。大洋が波打つように、宇宙は「生起する」。どんな個人も、自然界全体のひとつの表現、全宇宙のユニークなふるまいだ。この事実は、ほとんどの個人にとって、めったに経験されるものではない。

私たちがそこから生まれ、全生活がそこに依存している。

皮膚の向こうの世界は、実際には私たち自身の身体の延長なのだ

〈p48〜「白と黒のゲーム」より〉
まず、五感というもののひとつひとつは、ある根本的な感覚―触覚のような何か―の変形したものである、と考えてみよう。

視覚は非常に鋭敏な触覚だ。眼は光の波に触れ、あるいは感じながら、手の届かないところにあるものにも触れることを可能にする。同様に、耳は空中の音波に、鼻はほこりや気体の微粒子に触れる。

〈P92〜「正真正銘のまがいものになる方法」より〉
「皮膚に閉じ込められた私」、「かりそめの生を生きるほんのちっぽけな私」などという自己認識はまやかしだということ。それが極秘事項である。

この宇宙の事象は何ひとつとして全体から切り離せないのだから、その唯一のリアルな「あなた」あるいは「自己」は全体である、ということこそが事実なのだ。

〈p146~「世界はあなたの身体だ」より〉
問題の「核心」となるのはやはり、人間は世界の内にある個別の独立した存在であり、世界の独特な活動とは別のものであるという、自身に対する自己矛盾的な規定である。

世界に関する、私たちの認識というのはすべて、ある意味では自己認識である。知るということは、外界のできごとを身体のプロセスに、とりわけ神経組織や脳の状態に移し換えることだ。
つまり私たちは、身体によって、そしてまた身体構造に従って、世界を知るのである。
(引用ここまで)


私とは、ある独立したひとつの存在というより、むしろ見聞きし味わう外側の世界と、それを感受する身体との相互作用であるといえる。五感が世界を知覚し、知覚された刺激が神経系統を伝わりやがてその回路を変える。逆に脳と身体によってまた世界へと働きかける。こうした相互のプロセスが繰り返されているのだ。

クジラがオキアミを海水ごと飲み込むように、世界が私の身体へと流れ込む。流れ込んできた世界と注意の用い方によって私の身体(脳)は変えられるが、私もまた世界を変える。

映画『素晴らしき哉、人生』(2014/12/27)で見たように、そしてバタフライ効果という科学的見地からも考察した(2015/1/3)ように、「私と世界はセット」なのだ。

しかも世界は、知覚というプロセスと脳をはじめとする身体構造によって、私たちの内にその姿を現出する。皮膚の外側にある世界は、私たちの内に映し出されている。「私の本質はスクリーンであり、世界は映し出されたコンテンツである」(2014/8/13)とは、まさにこのことなのだ。

身体の延長としての世界、神経系統に映し出されるコンテンツとしての世界。そうした親密であるはずの世界から「孤立している」、「疎外されている」と感じてしまうのは幻想に他ならない。心を開いて、今ここに意識の錨を下ろし、外の世界にぐっと近づいてみよう。
世界と疎遠になるのではなく、もっと間近に感じるのだ。これが本日の二つ目のポイントである。

世界はあなたの(わたしの)友人だ。世界はあなたの(わたしの)家族だ。世界はあなたの(わたしの)恋人だ。そして世界はあなたの(わたしの)家なのだ。

離れ内、近く外(笑)

ほんとうに福を招くことができるのは、自己認識を変えるこの言葉の方ではないだろうか。