ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

「不即不離」という対人関係のフローを実現する

森田療法の勉強を始めました。そして森田正馬先生の『自覚と悟りへの道』を読み進めていく中で、自分にとって大切な人(上司、顧客、恋人、友人etc.)との関係のとり方について、たいへん興味深いと思われる部分がありましたので紹介して考察してみたいと思います。

(以下p74~p75より引用)
ここに入院している人は、森田を尊敬し、あるいは信頼しているからこそ入院したわけで、森田がこわいのは当然のことであります。この森田がこわいという心そのままであると同時に、一方では森田の話を聞き、指導を受けたいという心があるはずです。このこわくて逃げたい気持ちと、近づいて幸せになりたい気持ちとがはっきり対立している時に、私たちの行動は微妙になり、臨機応変になり、もっとも適切になり、いわゆる不即不離の態度となるのであります。
恋人には近づきたいし、近づくのは恥ずかしい。このように二つの相対立した心が働くのを、私は精神の拮抗作用もしくは調節作用と名づけています。この相対立する心が双方とも強くて大きいほど、精神の働きが盛んであるといえます。
神経質者の考え方、あるいはまちがった精神修養にとらわれている人は、「こわい」とか「恥ずかしい」とかいう心を否定し圧迫しようとし、一方には近づきたいという心をやたらに鞭打ち、勇気をつけようとして無理な努力をし、その結果は精神の働きがかえって萎縮し、偏ったものになってしまうのであります。
「こわくない」ように思おうとするから、ムリに虚勢を張って「かたくな」になり、しいて近づこうとするから、相手の迷惑などには少しも気がつかず、「ずうずうしく」なってしまうのであります。
それとは反対に、両方の心が相対立して働いているときには相手に接近しても、くっついたきりにはなりません。つまり「不即」の状態でありまして、相手のよろこぶときには近づき、相手が迷惑がるようなときには、ちょっとその場を外すのであります。また一方には、「近づきたい」心があるために離れていても離れきりにはならないで、ちょっと相手の声がするとか、暇なときがあるということを、きわめて微妙に見つけて、すぐそのそばに近づいてゆくというふうに、不離の状態になります。
つまりくっつくでもなく離れるでもなく、その駆け引きが自由自在で、極めて適切な働きができるのであります。「親しんで狎れず、敬して遠からず」というふうになるのであります。(引用ここまで)



ここに書かれている「不即不離」とは、「対人関係においてフローの状態が実現されたものではないか」という想いが浮かびました。

私たちはとかく「こわい」「恥ずかしい」という心を否定圧迫しようとして、ムリに虚勢を張って「かたくな」になったり、相手の迷惑などには少しも気がつかず、しいて近づこうとして「ずうずうしく」なってしまったりしがちですが、そうではなく、つまり「くっつくでもなく離れるでもなく、その駆け引きが自由自在で、極めて適切な働きができる」状態こそ望ましいわけです。そうした状態とは、まさに「対人関係におけるフロー状態」といってもいいでしょう。

では、この対人関係のフロー状態である「不即不離」はどのように達成されるのでしょうか?

「こわい」とか「恥ずかしい」というのは、本来私たちに備わっている性情であり、「純なる心」であるにもかかわらず、これを否定、圧迫しようとすることが間違いであると書かれています。

本来コントロールできない感情をどうこうしようと格闘しない(=感情のLet it go)ということです。そして対立した精神の拮抗作用がある方がむしろ精神の働きが盛んであり、好ましいのだということです。

さらに

(p76より引用)
不即不離の状態にはどんなときになるかといえば、一心に注意が目的物だけに向かっていて、自分自身の「はからい」や小細工がなくなったときになるものであります。この「はからい」のことを「とらわれ」ともいいます。「恥ずかしがってはいけない」とか、「先生に接近しなければならない」とか主義やモットーを立てるのが「とらわれ」であります。この「とらわれ」が多くれば多いほど不即不離から遠ざかるのであります。
ここの入院療法のもっとも大きなねらいは、この「とらわれ」から離れることであります。それにはどうすればよいかというと、一方には自分の目的物から目を離さぬことが大事でありますが、一方には自分の心が「とらわれ」から離れられないときには、そのとらわれのままにとらわれていることも、同時に「とらわれ」から離れるところのひとつの方法であります。(引用ここまで)


ネガティブな感情をどうにかしようとして主義やモットーを打ち立てない、すなわち「とらわれ」の思考を手放す(思考のLet it go)ことが2点目です。

そして、一心に注意が目的物に向かうこと、目的物から目を離さぬことと書かれていますが、「気分本意ではなく目的本位で行動すること」(これについてはまた稿を改めて触れたいと思います)、が3点目でしょうか。

そして、一方には自分の心が「とらわれ」から離れられないときには、そのとらわれのままにとらわれていることだといいます。

これは、単に、無意識に「とらわれている」のではなく、とらわれていることを自覚し、さらに、「とらわれていてはいけない」というのもまた一つの「とらわれ」であること(メタとらわれ)に気づいた上で、それをそのままにしておく(メタとらわれのLet it be)こと、これが4つ目のポイントです。

『新時代の森田療法』(慈恵医大森田療法センター編)にはこう書かれています。

「神経質性格の患者さんには、自己の不安や恐怖の感情を無理に排除しようとするところに、とらわれの源がある」(p39)

「そもそも不安やその根底にある死の恐怖は、限られた時間を生きる私たちにとっては避けることのできない普遍的な感情です。」「そうした不安を排除しようとする行動や心のやりくりをはからいと呼びます。こうしたはからいをやめそのままにしておく」(同書、p40)ことが、森田療法のいう「あるがまま」の心の姿勢なのです。

あるがままの心の姿勢(対立する感情と思考のLet it go、目的本位で行動すること、メタとらわれのLet it be)に努めることによって、「不即不離」という対人関係のフローを実現しうるよう、日々心掛けてゆきたいと思います。