ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

『寛容論』を実践する、すなわち脱ペインボディ。

昨年1月のパリのテロの後、フランスの思想家ヴォルテール(1694-1778)の著書である『寛容論』が10万部のベストセラーになったといいます。
今月の2日に放送された『100分de平和論』で作家の高橋源一郎さんが取り上げた名著です。


トゥールーズプロテスタントの一家で起こった長男の自殺事件が、その父親が犯人だという冤罪を着せられ拷問の上死刑に処せられたという実際の事件をもとに書かれました。

この事件はカソリック側によるプロテスタントへの宗教的弾圧だ!とヴォルテールは確信し、この本を書いたのだと高橋さんは言います。

寛容論の中では、宗教的不寛容に対しての批判が強く書かれている、そして彼は人間の理性を信じる理神論を唱えたと解説されていました。

それぞれの宗教が掲げる神ではなく、その神を超えた存在に意識を馳せ、

われわれはみんな同じ父を持つ子供たち、同じ神の被造物ではなかろうか、

という視点にたどり着いてほしいとヴォルテールは願った。「わが宗教こそ」と考えるのは狂信であって、そうした「狂信を打ち破るのは人間の理性である」という立場、それがヴォルテールの唱えた理神論だと言います。

普遍的な原理のひとつは「自分にして欲しくないことは、自分もしてはならない」ということである、という言葉が取り上げられた後で、

2015年11月13日130人の被害者を出したパリ同時テロ。そのテロで妻を失ったアントワーヌ・レリスさんがファイスブックに上げたという言葉に、私は釘付けになりました。(以下引用)

『君たちは僕の憎しみを手に入れることはできない』

僕は君らに憎悪という贈り物はしない。
君らはそれを望んでいるのだろうけれど、
憎悪に怒りを返すことは、
君らを作り上げたのと同じ無知に屈服することに等しい。

君らは僕に恐怖を抱いてほしいだろう、
僕の周りの人々に警戒の目を向けてほしいだろう、
僕に安全と引き換えに自由を失ってほしいだろう。

だが君らの負けだ。
僕は変わらずに生き続ける。


これは寛容論そのものだ、と高橋さんは言います。

憎しみに対し憎しみで返すことはしない、これがひとつ、そして

無知に屈することはしない、(憎しみに対して憎しみで返すことは憎しみの連鎖が続くだけである、そのことが分かっていない無知)これがひとつである(高橋さん)。

ロンドンでテロが起こった時に、ロンドン市長がこれと同じようなことを言ったと斉藤環さん※がコメントしました。

日本の政治家でこれを言える政治家はいない、国民も共同体感情に負けてしまうのではないか、という斉藤さんのコメントが印象に残ります。

寛容論の最後で「ヴォルテールは神に祈りをささげています」と、映像とともに紹介された言葉、素晴らしかったです。(以下、引用)

私が訴えるのは
もはや人類に対してではなく、
それはあらゆる存在、あらゆる世界、
あらゆる時代の神であられる
あなたに向かってである。

なにとぞ、われわれの本性と
切り離しえない過ちの数々を
あわれみを持って
ごらんくださいますよう。

これらの過ちが
われわれの難儀のもとに
なりませぬよう。

あなたはお互いに憎み合えとて、心を、
またお互いに殺し合えとて、手を
われわれにお授けになったのでは
ございません。

苦しい、つかの間の人生の重荷に
耐えられるように、
われわれがお互い同士
助け合うようお計らいください。

すべて滑稽なわれわれの慣習、
それぞれ不備なわれわれの法律、
それぞれがばかげているわれわれの見解、

われわれの目には
違いがあるように思えても
あなたの目から見れば
なんら変わるところない
われわれ各人の状態、

それらのあいだにある
ささやかな相違が、
また「人間」と呼ばれる
微小な存在に区別をつけている
こうした一切の
ささやかな微妙な差が、

憎悪と迫害の口火にならぬよう
お計らいください。

すべて人は兄弟であるのを
みんなが思い出さんことを。

この番組を見終えて、しばらくして・・・。

これは個人レベルではエックハルトトールのいう「ペインボディと同一化しないこと」と同じだ、という想いが強く湧き起りました。

この寛容論を実践することとは、まさにペインボディと脱同一化することです。

ペインボディ(例えば怒りや憎しみ)に自動的に、機械のように反応しがちな自分(エゴ)がいます。

このような無意識のメカニズムが、共同体感情となった時、人を戦争へと導くのです。

○○は許さないと、生の欲動(エロス)と、死(破壊・攻撃)の欲動が複合化し、大義名分を形成し、それが集団心理になる時、戦争は起こります。

私たちは、この報復したくなるエゴ、すなわちペインボディの誘惑にこそ、屈してはならないのです。

その出来事、状況に問題があるように見えますが、実はそうではないのです。

それに自動的に反応する心、グルジェフのいう機械のように反応する心、中沢新一さんのいう無意識であることこそが問題なのです。

ペインボディと同一化するとき、私は個人レベルのA級戦犯です。

それが集団意識となった時、集団的ノルアドレナリンが分泌される時に、戦争は起こります。

寛容論を実践するとはたんに、寛容であれということではありません。

それは、無知を自覚すること。無意識を自覚すること。二つの欲動の複合体を自覚することです。

ほんとうの敵とは誰か、それが心の中にいることを自覚することなのです。

寛容論を実践する、それは日常の中で生じる些細なペインボディを観察し、ペインボディの誘惑に気づき、その手には乗らないとコミットし、脱同一化をはかることなのだと思います。



ペインボディについては過去のブログこちらを参照下さい

http://nagaalert.hatenablog.com/entries/2011/09/18

憎しみだけでなく、不安、怖れ、抑うつ、嫉妬、焦燥、短気、怒りもペインボディの形です。


昨年の「100分de日本人論」に引き続き、今年も出演した斉藤環さんの話も大変興味深かったです。『人はなぜ戦争をするのか?』のなかでフロイトは「なぜなら人間は憎悪と破壊を求める欲望を自らの内に持っているから」だといいます。人間にある二つの欲動、生の欲動、死の欲動これは愛の欲動、憎しみ(攻撃・破壊)の欲動、この2つが複合化して起こるというのです。「国家の構造と共通する個人の心の暴力衝動」として紹介されていました。これは「ペインボディと同一化してしまう衝動」と言い換えることができるでしょう。