ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

アテンションのスタイルを自在に選択する

f:id:nagaalert:20161012092245j:plain

前回のブログでフェーミ博士の唱えるアテンションのスタイル「ディフューズ/オブジェクティブ」「ディフューズ/イマースト」とあわせて、次回に「前景と背景を等しく見る」を取り上げる、と書きましたが、それに先立ちまして、フェーミ博士の唱える「オープンフォーカス理論」(私なりに簡単にいうと、状況や目的に応じて柔軟で自在なアテンション・スタイルにフォーカスできることが望ましいという理論)を整理しておきたいと思います。

まず、上の図のようにアテンション(attention)には、4つのスタイルがあるとフェーミ博士は言います。(以下、The Open Focus Brain p46-p54より拙訳抜粋)

Narrow

ナロー(Narrow)のスタイルでは、体験の限定されたフィールドにアテンションを集中し、意識から周辺の知覚は排除される。…

どんな感覚や思考、あるいは問題でもほとんど他のすべてを除外して慢性的にナロー・フォーカスする(限定した知覚、感覚、思考、感情に集中する)ことは可能だ。例えば、ナローフォーカスで会話をしているなら、話されていることと、自分の心の会話以外の感覚の入力がブロックされるように。

結果として会話の中身に対する身体的な反応には、注意が及ばないままとなる。

この自覚の欠如は私たちからたくさんの「感情知性」を奪い、本格的に他者への関わりを求められる時に特に有害である。…

Diffuse

ナローと反対にあるアテンションのタイプはディフーズ・フォーカスだ。それはよりソフトで包含的な世界の景色を提供する。

懐中電灯の光線のようなアテンションを考えよう。キャンプ旅行で誰かが樹の中にクマの子どもの声を聞いた。光線が狭くなるまで光を調整しなさい、近づくと光の全部がクマにフォーカスするでしょう。

しかし私たちがその木に動物がいることを知らないなら、電灯の光線が照らす範囲を一本の木よりももっと広げることができる―クマを含めて森のもっと広い範囲を照らすまで―。

 ディフューズ・フォーカスは排除的あるいは単一のポイントというよりむしろパノラマ的だ。もっとも究極的な形態において、それは包含的で3次元的だ。内側と外側の刺激に対して同時に等しいアテンションを向ける。それらが生じるスペース、沈黙、非時間(timelessness)にも同じように。

特別なアテンションの対象が目立つということはなく、対象と背景の間の区別は明瞭ではない、あるいは消滅する。

森を歩いているとき、鳥の声、花の香り、風の感覚、木々の景色そして同時にこれらが生起している(その背景にある)スペースと沈黙(silence)がディフューズ・フォーカスだ。

 ナローとディフューズの両方のアテンションを包含しそのバランスを取ることが、たいていの日常生活において適当なのである。

ナロー・フォーカスは集中し、意識を強化するが、ディフューズ・フォーカスは体験と反応を広げ和らげる。

オープンフォーカスはナローとディフューズのアテンションの形態を同時に気づきの意識へと許容する包含的なスタイルである。

もしナロー・フォーカスに集中しているにもかかわらず、スペースの気づきや他の体験への感覚をシンプルに包含しているなら、私たちのアテンションはもっと等しく配られ、アテンションがストレスを拡散し分解するだろう

 それは暗くなった部屋のドアが開くようなものだ。ドアが開くときその隙間は部屋に十分な光が入ることを許容する。

その結果、暗闇にあった多くのモノがはっきりと今や見られるのだ。加えて、空気がいくらか部屋に入ってくると呼吸するのが楽になるだろう。

私たちのフォーカスを開くことはドアを開くのと同じように作用する。ほんのわずかなオープンが知覚的身体的環境を著しく変えるのだ。

 Objective

図の横軸は経験に遠いか近いかの感覚に関係する。

この連続体に沿った柔軟性は、必要に応じてフォーカスをナローにしたりディフーズにしたりできるのと同じぐらい健康や身体機能にとって重要となる。

オブジェクティブなアテンションは、観察者を意識の対象から引き離し、それを評価しコントロールする意識的な能力を高める。

アテンションの異なるスタイルは、特定の身体の姿勢や表情に関係し、支えられる。ロダンの考える人は典型的なオブジェクティブ・アテンションの姿勢であり、人々が冷淡な、あるいは審査するような表情で顔色が悪いなら、その時はこのスタイルを強めているといってよい。

オブジェクティブ・アテンションは人類に、原初の祖先が物質的な世界との間に有していた一体感から一歩下がって、自然の法則を発見するのを促した。

それは数え切れないほどさまざまに、わたしたちの生活を向上させる革新を引き起こした。そして不運にも、それはまた私たちが自然の一部であるという意識からも私たちを分離した。

環境の責任ある支配者という私たちの過ちをおそらく説明するものだ。

 

Immersed(Absorbed)

Objectiveと反対の軸は、浸りきった、あるいは没入した(immersed or absorbed)アテンションと関係し、対象との融合状態に入っていく人の特徴であり、忘我や無意識の地点に至るプロセスである。

それは通常、いつもというわけではないが、楽しみのある含みをもっている。普通の例としては、おいしいものを味わったり、セクシャルな楽しい体験があげられる。

人々の没頭したさまは通常うっとりした表情をもつ。それはこの種のアテンションの心と体への反映だ。例えば、恋人の顔、コンサートに行く人、あるいは満足げなグルメのうっとりした顔を想像してください。

創造的なアーティスト、あるいはプロフェッショナルなアスリートは苦もなく練習の成果を演じる。あるいはダンサーは、とても音楽と自分の動きに没頭しているので、自己の感覚を忘れている、それがイマースト・アテンションだ。

 そして、アテンションのスタイルはこの4つのどれかなのではなく、その組み合わせで現れるといいます。

ディフーズとイマーストの両方のアテンションは脳の右半球で組織化される。

私たちは同時にひとつ以上のアテンションを払うことができる。アテンションの異なるスタイルは分離したメカニズムであるが相互に排他的ではない。

そして、以下のようにABCDという4つのアテンションの次元が示されます。

f:id:nagaalert:20161012100151p:plain

十分に柔軟な中枢神経系は、ナロー/オブジェクティブなアテンション、あるいはディフーズ/イマーストな状態のどちらか一方にバイアスをかけられることはない。

その神経システムはこれらのスタイルを自然に回転し、スペクトルに沿ってさまざまなアテンション・スタイルを組み合わせる。

 オープンフォーカスでは、私たちのアテンションは包含的である―景色、音、他の感覚的情報はすべて、広く興味深い方法で、(背景である)スペースとも一緒に、取り入れられる。

ひとつの感覚のシグナルが他を排除してフォーカスされることはない。もっとも重要なことは、オープンフォーカスは私たちがどのように注意しているかの自覚を促すということである。

私たちは最も適したスタイルを決定し、すばやくそれを強調する。図の区切り線によって定義された4つの象限(ABCD)は、アテンション・スタイルの異なる組み合わせと符合する。

 

ナロー/オブジェクティブ 

象限AはNarrow-objective attentionと関係する。それは私たちが最も得意とするスタイルだ。

それは高い波長の脳波(中程度より高いβ波)と連動し、主として左脳によって組織化される、エネルギッシュで速いペースの活動である。

narrow-objectiveフォーカスによって、私たちは優先的に、ある限定された経験の領域―視覚、聴覚、認知的な刺激から成る―に注意を払う。

しかし内側の身体的知覚や感情、そして他の感覚様式は排除する。このスタイルは形(figure)の対象化を強調し、背景に対する気づきにはほとんど意識を馳せない。

極端に言うと、たとえば蝋燭の炎を見るような一点へのアテンションである。

 極端なnarrow-objective attentionは、それが使われすぎや慢性的となった時、深刻な影響をもたらす。心配、パニック、悩み、そして深い全身性硬直に至る。

それはまた、滑らかで流れるようなパフォーマンスの敵でもある。

たとえば、イップス―パッティングの時の痙攣性の制御不能な筋肉の動き―として知られているものに苦しむゴルファーは集中しすぎて筋肉が緊張しているのである。

 

ディフューズ/オブジェクティブ

B象限によって表わされるdiffuse-objective attentionは、われわれが経験する広い領域を包含しながらも同時に客観性を残し、経験するものから離れている時に生じる。

このアテンションのスタイルによって、空間の、沈黙の、心の、そして時間のない、より拡散した気づきの真ん中に不動の存在として、ずらりと並んだ客体の感覚を受け取る。

このスタイルはよく学習された行為によって典型的に表わされる。反復を通して思慮深い熟達を獲得する。

オーケストラで演奏すること、車の運転、聖職の儀式、本格的あるいは芸術的な作品への専心、プレイの監督など―仕事に距離を置いた視点を維持しながら多くの刺激を包含するために、フォーカスが広げられたすべての状況である。

  象限Aと象限Bは「両方とも経験からのかい離に依拠したアテンションのタイプを表わしている」といいます。対象を距離を置いて見る、その対象を狭い視野で見るか広い視野で見るかの違いであるといえます。

それに対し「残りの二つの象限(Ⅽ、D)は、短く言うと、経験への没入程度と関係した注意の形態を表わす。没入の究極的な形には自己意識の消失がある」といい、「象限AとBが自己と他者、主体と客体の区別を強調するのに対し、象限CとDはこの区別の溶解、体験との一体化を強調する」と書かれています。

 

ディフューズ/イマースト 

象限Cのモード、diffuse-immersed attentionは、私たちの文化が求めるナロー・オブジェクティブなスタイルと正反対である。

現代の生活によってもたらされた心理学的生理学的に蓄積されたストレスから回復するのに最も効果的なアテンションのスタイルだ。

ディフューズ/イマースト(拡散ー没入)のアテンションは、「経験への一体化」と「経験の注意範囲の拡大」を同時に内包する。

これらの性質を強調する状況の自覚は、私たちの文化では普通ではなく、最も多くのこのアテンションのスタイルに関係するのは究極の創造性、愛、霊性の成就である。

ディフューズ/イマーストのスタイルが強調されるとき、時間と空間の境界が溶解し、あるいは区別が消失する

ナロー/オブジェクティブのアテンションでは分析がサポートされるが、ディフューズ/イマーストのスタイルは多様性の統合をサポートする。

意識的な気づきと様々なアテンション・スタイルの柔軟な応用は機能の最適化を促進する。 

 

ナロー/イマースト 

象限Dはnarrow-immersed attentionを表わす。低い周波数と高い周波数の組み合わせと関係し、ナロー/イマースト(狭窄ー没入)のアテンションは経験を味わうことと強化することを同時に認めさせる方法である。

仕事に没頭したり、自分を見失ったりする時その過程の時間の感覚が失われるが、これもまたナロー/イマーストのアテンションである。

魚釣りを楽しんでいる男のことを考えてほしい。彼は流れるようにフライを投げ、魚が餌に食いつくこと以外に何も見ていないほど、数時間われを忘れる。

釣りの魅力はこの没頭のアテンションのスタイルからくる生理学的な解放なのだ。

 ナロー/イマーストのアテンションには、知的な関心、あるいは感情的、身体的な悦び、刺激的な活動―経験を味わい、それを強化するために私たちが物理的に近づきたいと欲する経験が含まれる。(通常の娯楽はここ)

アスレティックのアトラクションや文化的イベントは、自己意識の最小化を伴う没頭あるいは没入の機会だ。

そんな深い没頭から乱される時に人々が感じるイライラの、それは説明なのだ。

 

そして以下のようにまとめられています。

この4つの象限に述べたアテンション・スタイルの複合に加えて、私たちはアテンションのそれぞれの軸の反対方向の極を統合することを学ぶことができる。…

ナローとディフーズを統合することの重要性は前に討議した。

オブジェクティブとイマーストのスタイルを同時に維持することは私たちの人生を変えるほどの大きなストレスの解放である。

世界とひとつになるような満たされた生命感を感じるだけでなく、はじめて創造的、超越的な領域の経験、人生の多次元的な体験をする自分を見出すだろう。…

直ちにオープンフォーカスで見なさい。私たちはナロー/オブジェクティブ、あるいはナロー/イマースト・フォーカスで生活することがあまりに習慣化されすぎているため、それをすぐにブレイクすることはできない。

オープンフォーカスは周辺に気づきの意識を向けるだけではなく、すべての対象と空間に等しく同時の気づき―微細だが決定的で間違えようのない違い―を与える。

それは学ぶのに時間と実践が必要なスキルだ。しかしながら、この本の中にあるいくつかの特別なエクササイズによって、誰でも注意を向ける方法を変えることを学べる。

そうして極端なアテンションの偏りや努力、緊張、ストレスの蓄積との関係を減らすことを選択するのだ。

 「オープンフォーカス」イコール「ディフューズ」なアテンションではありませんが、私たちがナローなアテンションで生活するのに慣れ過ぎているため(特にナロー/オブジェクティブにロックされているという表現が本書の終盤で見られます)、訓練して意識的にディフューズなアテンションを取ることが大切であり、そのような柔軟なフォーカスを取れることがオープンフォーカスなのです。

『実践!マインドフルネス』で熊野宏昭さんが書かれた「注意の分割=場としての自己」とは、ディフューズなアテンションのことであり、「世界と自分が一体になり全部を感じ取る」とは象限Cのディフューズ/イマーストのスタイルで起こることであると思うのですが、いかがでしょうか?