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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

「実存としての自己」を直覚させる「あなたはあなた」

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「かぶき者慶次」という時代劇を見た。関ケ原の戦いの後、石田三成の子を前田利家の甥にあたる前田慶次がかくまって、上杉家の領地である米沢の地で秘かに育てているという設定である。前田慶次は実在した人物だが、石田三成の子はドラマでの名は新九郎といい、これはフィクションだ。もちろん米沢でそうした子を前田慶次が育てたという史実は残されていない。とはいえ、面白かった。

途中で、これは・・・「実存」なのでは・・・と思った場面があったので振り返ってみたい。

それまで寺に預けられていた8歳の新九郎(しんくろう)を前田慶次(けいじ)が迎えに来る。新九郎は自分の父が石田三成であることは知らない。慶次も自分が父であると子に伝え米沢に連れて行き、育てる。
18歳も過ぎた頃、「お前の実の父は、今は亡き石田三成様である」とついに告げられる。以下は、その翌日の場面である。

慶次の実の子の佐乃(さの:17歳)が、事実を知って混乱し落ち込んでいる義理の兄である新九郎に云う。

佐乃:
兄上は今までの自分さえもいつわりだとお考えなのですか。

信じていたことが違っていたからと言って、親しき仲まで断ち切って別人となってしまうおつもりですか。

誰の子であろうとも〈兄上は兄上〉なのではないですか。

私とて戸惑っております。まことの事を知ったからといって、兄上という人が変わってしまったわけではない。

〈兄上は兄上〉です。

新九郎:
・・・たしかにお前のいう通りだ。

〈俺は、俺〉

受け入れるには、しばらく時間がかかりそうだが・・・。

― そして数日が経ち、新九郎はこう言います。

新九郎:
自分が生きていることは、皆の迷惑になる。俺がいなくなることが一番いいのかも、と考えた。だが嘆いていても何も変わらぬ。俺がこうやって生かされているのも、これからの世で何かをなすためだと思うようにした。

 

〈 〉で強調した文字の部分が、おそらく頭のどこかに引っかかっていて、その場面を見た翌日ぐらいに「あーっ、これは、もしや」と思った。

 

もう少し丁寧に見てみよう。

事実を知って混乱し落ち込んだ新九郎は自分を見失ったのである。

自分を見失ったとは、「コンテンツとしての自己」、永井氏の言葉でいう「本質としての自己」、ACTの言葉でいうなら「概念としての自己」に同一化したのである。しかしそのコンテンツは受け入れがたい厳しいものであった。ゆえに大きな葛藤を生じたのである。

(ここでいう「コンテンツとしての自己」とは、私たちが普通に自己紹介するときに話す自分の内容のことで、自分の属性や信念、自伝的記憶などが含まれる)

しかしながらこのコンテンツは、仏教では幻想であるという。無明のなせるワザだ。

山下良道氏の言葉でいえば「映画を見ている」にもかかわらず、「映画を見ている」ことを忘れているのだ。

それに気づかせてくれ、その呪縛の鎖を断ち切ってくれたのが、佐乃がいった「誰の子であろうとも〈兄上は兄上〉なのではないですか」という言葉だ。

佐乃は目の前にいる新九郎に「〈兄上は兄上〉なのではないか」といった。すなわち、「あなたはあなたではないか」と言っているのである。その後、新九郎は変わっていく。なぜそんな一言が大きな力をもちえたのだろう?

考えてみれば「あなたは、あなた」とは、不思議な言葉である。

意味としては何も云っていないに等しい。

しかしながらこのような文脈で、「あなたはあなただ」、と云われた時、私たちの心の奥にある何かを動かす力を、この言葉はもっているような気がする。

むしろ合理的な意味を成さないが故に、無意識下に沈んでいたものを励起させるのではないか。

こんなことを考えていたら、また新たなシナプスがつながった!

ウィルバーのいうI AM もしくはI AMness は、まさにこれと同じではないか。

わたしは「何である」とは言っていない。わたしはある。わたしが「ただ存在している」。

永井均氏のいう、〈私〉とは、「ただ端的に存在しているこの私」、のことだった。

端的に存在しているこの私、すなわち「実存としての自己」を呼び覚ましてくれる言葉、それが、「あなたはあなた」なのだ。

私は、上杉家にとって迷惑な存在となりかねない石田三成の子だ。しかし「あなたはあなただ」といわれたとき、そうした私とは違うもう一人の本当の〈私〉が立ち上がる。「そう、わたしは、わたしだ」「だれがどう云おうとも、わたしはわたしでしかない」

上杉家にとって迷惑な存在となりかねない、とは「概念としての自己」である。「あなたはあなただ」という言葉は、その「概念としての自己」を破壊したのだ。それこそ「かぶき者」の真骨頂ではないか、と思った。

「かぶき」の前々身ともいえる猿楽の翁は、まさにこの役割を担っていたはずである。
中沢新一著『精霊の王』参照、後日また取り上げたいテーマの一つだがここでは詳細に触れない)

 

「概念としての自己」に囚われ、そのコンテンツの雲の中に頭がすっぽり入ってしまっていた「わたし」を目覚めさせ、「実存としての自己」を直覚させたのだと思う。

「実存としての自己」を直覚させる「あなたはあなた」。誰かに言われたことはありませんか?