ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

12因縁を断ち切るマインドフルネス

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最近、身の回りで起こっていることが「過去にこういうことが起こったので、今になってこうなってしまった」というようなストーリーで解釈されることがままあり、その度に、心の奥で、そうではあるが、いやいや違う、そうではない、と感じていました。

それが、2013年4月29日のブログ『自由が不自由を感じさせる逆説』に書いたことに大いに関連していたことを思い出し、「我が意を得たり」と膝を打ち、得心しました(過去の自分で書いたブログに「我が意を得たり」もないですが、そこで引用した文章に再びそう感じました)。

nagaalert.hatenablog.com

この記事はフランシスコ・ヴァレラ著『身体化する心』の一節を取り上げたものでしたが(前回のブログで「オートポイエシス理論」提唱者としてヴァレラの名を出しましたが、それに触発されたのかもしれません)、今回はその内容のうち、特に「12因縁連鎖を断ち切るのがマインドフルネスである」という点に重点を置いて述べたいと思います。

ここでは、12因縁を逐一説明することはしませんが、上図のように円環をなしています。

(以下『身体化する心』より引用)
この輪廻(samsaraサンサーラ)と呼ばれる条件づけられた人間経験の円環は、容赦なき因果律によって永久に回転する不満足の歯車として視覚化される。・・・

悟りを開いたブッダは12因縁の連鎖を探求し尽くして、この連鎖を断ち切る方法を希求した。過去については手の施しようがない。過去に遡って無明と行(為)を消せはしないのだから。・・・感覚が生じる感情の状態(受)も、それから生じる渇望(愛)も避けられない。しかし渇望から執着(取)は不可避なのだろうか、と。・・・
あらゆる瞬間に、正しく鍛えられた三昧を実行することによって、人は自動的な条件づけの連鎖を断つことができる。渇望から執着へ、さらに後続するものへ必ずしも自動的には移行「しない」と。(引用ここまで)

 

「三昧」とはマインドフルネスのことです。
「渇望(愛)」は8番目の因縁、「執着(取)」は9番目の因縁です。マインドフルネスを実践することで8から9への因縁連鎖を断ち切ることができるといいます。

(以下、引用)
三昧/覚の修行者は、条件づけられた自動的行動パターンを三昧により断つことができるようになる(特に、渇望の生起による自動的な執着から解放される)。これがさらに三昧になる能力を高め、注意の領域を覚(アウェアネス)にまで拡大させ、無明の根源に迫ってゆく。このアウェアネスが経験の本質に対するより深い洞察をもたらし、それにより無明と自我中心的な意思作用に基づいた、無思慮な常習パターンの全サイクルを放棄するさらなる欲求と能力とが培われる。(引用ここまで)

このことは、「弁証法行動療法(DBT)」の真髄なのではないか。最近勉強を始めたばかりなのですが、そう思います。

「無思慮な常習パターン」とは、わかりやすい例でいうとニコチン中毒や、過度のアルコール依存、ギャンブル依存症などです。「渇望(愛)」がムクムクと起こり、それを取らずにいられなくなることが「執着(取)」です。

マインドフルネス(三昧)は、その「渇望(愛)」の生起した瞬間に「今だ!」というように気づきを入れます。

そして判断を交えず、その衝動、感覚のありのままを観察します。

マインドは理由をつけて摂取することを、正当化しようとするでしょう。「今回だけ」などと囁きます。

そうした思考が生起していることも、「また頭がしゃべりだした!」と観察します。

呼吸を上手に使って、身体の感覚(口、手、頭、胸・・・)を見守ります。

しばらくすると、どこかの感覚がじわりと変化し始めます。

衝動がさっきよりも弱くなったことを感じ取ります。

以上、私自身が禁煙(もう16年も前なので絶煙?)した時のプロセスは、こんな感じでした。

アドラー心理学の言葉でいうところの原因論にもとづいて、見かけの因果律でストーリーを作っている限り、その連鎖であるサンサーラから逃れられないというのが、最も大切なところでしょう。

世界的な仏教学者David. Loyは著書The World is made of StoriesのなかでI AM Made of Storiesと書いています。
(以下引用拙訳)
ストーリーは私の人生に、意味を付与した構想を与えます。・・・私の性格は私の演じる役割によって構築されます。異なる物語では、異なる役割を私は演じますが、社会において少しずつ習慣的な態度が身につき、自己のアイデンティティを形成しつづけます。これらのストーリーにおいて自分の役割を変更することは難しくなります。ダートトラックをぐるぐる回るカーレースのように、轍は深くなります。
 サンサーラ―この苦しみの世界は、仏教によると―文字通りぐるぐる回ることを意味します。・・・
私たちの喜びも悲しみも、笑い声も涙も、楽しみも苦痛も、愛も恐れも、ひらめきも失望も―すべてストーリー化されたものです(all are storied)。
(引用ここまで)

そしてそのすぐあとの節でこんどは全く逆にI AM Not Made of Storiesと書いています。

(以下引用)
ストーリーなしには、自己はありません。サマディ瞑想の間に全てのストーリーを手放すとき、私は無(no-thing)になります。この無は何と言われているのでしょうか?それは、ネティ、ネティ―「あれではない、これでもない」です。・・・
仏教徒のカルマの理解は、自己変容への鍵として意図性を強調します。・・・なぜなら私はその物語であり、かつまたその物語ではないからです。私はその物語です。なぜならそんなストーリーが私の自己感覚を構成しているから。しかしもし自己がその物語でしかなかったなら、その物語を捨てて、新しい物語を獲得する可能性はないでしょう。変化するアイデンティティのためには、その物語の別の何か、それによって縛られない何かがあるべきなのです。
その「他の何か」を描こうとする企ては、私のストーリーの内側でそれに役割を与えます。しかしながらそれはこのように固定化できない(it cannot be fixated)のです。それは特定の物語の部分ではありません。それが物語に無常であることを許す(allows narratives to be mutable)ものだからです。(引用ここまで)

三昧(マインドフルネス)/覚(アウェアネス)の実践によって、ストーリーあるいはぐるぐる回り続けるサンサーラを断ち切ることができます。
それが、I AM Not Made of Storiesでしょう。

三昧/覚の実践により、12因縁連鎖、特に8番の「渇望(愛)」と9番の「執着(取)」の間の連鎖を断ち切ることができます。

ストーリーに囚われている間は、因縁連鎖を断ち切れません。原因論、見かけの因果律に縛られているうちは、自由になれないのです。

習慣的で自分が取りがちなストーリーに気づきましょう。

渇望が執着へと繋がっていく様子を観察しましょう。

言い訳をしたがる思考そのものを見つめましょう。

マインドフルネスの実践によって12因縁連鎖を断ち切り、新しいストーリーを身につけること。それは可能なのです。