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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

リアリティは部分/全体であるホロンから構成されている

ホロンとは、
アーサー・ケストラーが作った造語で、「ある文脈において全体であると同時に別の文脈で部分である単位のこと」を指します。

ケンウィルバー著「進化の構造Ⅰ」のp57にこう書かれています。

実在/現実(リアリティ)はモノあるいはプロセスから構成されているのではない。それらはまた原子あるいはクォークから構成されているのでもない。また全体からだけ、あるいは部分からだけで構成されているのでもない。リアリティは部分/全体であるホロンから構成されているのである。
 原子、細胞、シンボル、観念のどれをとってもそうである。そのどれもモノともプロセスとも、また全体とも部分であるとも言うことはできない。それらはすべて同時に部分/全体である。したがって、すべては原子であるとする原子論、すべては全体であるとする全体論ホーリズム)はまったく的外れである。すべてはホロンであり、ホロンでないものはない(そしてそれはどこまでも上昇し、どこまでも下降する)。
 原子は原子である前にホロンである。細胞は細胞である前にホロンである。観念は観念である前にホロンである。それらはすべて他の全体の一部として存在している全体である。したがってそれらは(私たちがそこにいかなる「特別な性質」を発見するずっと以前から)、最初から、最後まで全体/部分、ホロンなのである。
 同じように、確かにリアリティはモノではなく、さまざまなプロセスから構成されていると言えるかも知れない。しかしそのプロセスは、それ自体、他のプロセスの一部なのである。リアリティを基本的に構成する要素がモノなのかプロセスなのかというのは、ポイントが外れている。なぜならどちらにしたところで、それらはホロンなのであり、どちらかに片寄って見ることは的を外してしまうからだ。確かにモノは存在する。またプロセスも存在する。しかしどちらもすべてホロンなのである。

ここだけを読むと、前回のブログで表現した構造は、かなりイケてるかなと思われましたが…。

ウィルバーはホロンについて以下20の原則(小分類、付加原則含む)を提示しています。

1.リアリティを構成するのは、モノでもプロセスでもなく、ホロンである。

2.ホロンは四つの基本的な力を持っている。
   a.自己保存(エージェンシー)
   b.自己適応(コミュニオン)
   c.自己超越
   d.自己分解

3.ホロンは発生する。

4.ホロンはホロン階層的に発生する。

5.発生したホロンは先行するホロンを超越し、包括する。

6.低位のホロンは高位のホロンの可能性を定め、高位のホロンは低位のホロンの確率性を定める。

7.階層が包含するレベルの数が、その階層が深いか、浅いかを決定する。そして所与のレベルにおけるホロンの数を幅(スパン)という。

8.連続的に発生する進化は、より深い深度と、より狭い幅(スパン)を持つ。

   付加原則1:ホロンの深度が深くなれば、意識の深度も増大する。

9.どのレベルのホロンを消去しても、それより上のホロンはすべて消去され、それより下のホロンは消去されない。

10.ホロン階層は共振化する。

11.ミクロは、深度のあらゆるレベルでマクロと相関的な交換を行う。

12.進化は方向を持つ。
    a.複雑性の増大
    b.差異化/統合の増大
    c.組織化/構造化の増大
    e.相対的な自立性の増大
    f.テロスの増大

これらのことを読み返していて、前回のブログで提示したヘキサキューブ・フラクタル構造は、こうしたホロンの階層構造をいくらかは表現しているものの、少なくとも「自己超越の原則」が反映されていないことに思い至りました。

「ホロンの自己超越の力によって新しいホロンは発生する」(第3の原則)のですが、そのときに、出現した新しいホロンは、その要素である部分の要素に完全に還元することはできません。上位のホロンは、下位のホロンを「含んで超えている」のです。

単なる寄せ集めで新しいホロンが発生するのではないということです。

原則5の説明では、こうかかれています。「新たに発生したホロンは、先行するホロンを包括し、かつ自己を定義する新たなパターン、形式、全体性を付け加える」と。例えば、水素原子は水分子の中にありますが、水分子は原子の中にはありません。単語は全部、文の中にありますが、文の全部は単語の中にはありません。            

そうでした、そうでした。

「一即多」「多即一」ではありますが、「多」から「一」へは上昇する(自己超越)のであり、「一」から「多」へは下降する(自己崩壊)のでした。フラクタルは全体と部分の、その相似性の方に注目した構造ですが、上位の「全体」で新たに付加される性質もまた表現に組み込まねばならないはずです。

こうした点を踏まえ、「形」への表現を今後もさらに進化させて行きたいと思います。