ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

1/allではなく、all/allとして観るために

『〈仏教3.0〉を哲学する』のp218で藤田一照さんがいいます。

(以下引用)

それで二つの自己というのを、すでに内山老師は言っていて、僕らは普通には1/all(オール分の1)という自分を自分だと思い込んでいるっていうんですよ。これが今までの議論だと平板な私に相当します。・・・坐禅というのは、尽一切自己が尽一切の自己に帰っていることだというんです。それはもちろん道元から来ているんですけど、尽一切、つまり全ての全てであるというのが自己であると道元さんの著書に書いてあって、これを数式で表すと、all/all(オール分のオール)ということになるんだと内山老師は言うんです。(引用ここまで)

  

1/allである自分とは、世界のなかに存在している私、永井さんのいう「私」に対応し、all/allである自己とは、自己=世界であるような私、永井さのいう〈私〉に対応しています。

 これと同様のことを、ウィルバーが『ワン・テイスト』のなかでうまく表現しているところを紹介したいと思います。松永太郎さんの訳と、原書の英文を部分的に対応させました。

(以下引用)

人々がよく感じるのは、人生に捕えられている、世界に捕えられている、ということである。なぜなら、人々は自分たちが、実際に世界のなかにいるように感じ、それゆえに、世界はまるで虫のように自分たちを叩き潰すことができる、と感じているからである。しかしこれは事実ではない。あなたは世界のなかにいるのではない。世界があなたのなかにあるのである。

You are not in the universe; the universe is in you.

 

典型的な考え方の方向はこうである。わたしの意識はわたしの体のなか(ほとんどは頭のなか)にある。わたしの体はわたしの部屋のなかにある。部屋は家のなかにある……。これはエゴの見方からすれば事実であっても、真の「自己」の見方からすれば、まったく真実ではない。

That is true from the view point if the ego, but utterly false from the viewpoint of the Self.

 

もしわたしが「目撃者」に落ち着けば、すなわち形をもたない「私―私」に落ち着けば、明白なのは、今、ここにおいて、わたしはわたしの体のなかにはいないということ、わたしの体はわたしの意識のなかにいるということである。

If I rest as the Witness, the formless I-I, it becomes obvious that right now, I am not in my body, my body is IN my awareness.

わたしは、わたしの体を感じることができる。それゆえ、わたしは、わたしの体ではない。わたしは純粋な「目撃者」であり、その意識のなかでわたしの体は生起している。

I am the pure Witness in which my body is now arising.

わたしはわたしの体のなかにいるのではない。わたしの体が私の意識のなかにいるのである。であるがゆえに、意識のままであれ。

I am not in my body, my body is in my consciousness. Therefore, be consciousness.

 

わたしが「目撃者」に落ち着いている時、この無形の「私―私」に落ち着いている時、明らかなのは、私はこの家のなかにはいない。この家は、私の意識のなかにあるということである。私は純粋な目撃者であり、その意識のなかで私の家は生起しているのである。わたしは家のなかにはいない。家がわたしの意識のなかにある。であるがゆえに、意識のままであれ。

I am not in this house, this house is IN my awareness. I am the pure Witness in which this house is now arising. l am not in this house, this house is in my consciousness. Therefore, be consciousness.

 

家の外を見る。大地、大きな空、ほかの家、道や車などを見る。簡単に言えば、私の前の世界を見る。この時、目撃者に、無形の「私―私」に落ち着けば、今、ここで、世界はわたしの意識のなかにある。私は純粋な目撃者であり、その意識のなかで世界は生起している。であるがゆえに、意識のままであれ。

…and if rest as the Witness, the formless I-I, it becomes obvious that right now, I am not in the universe, the universe is IN my awareness. I am the pure Witness in which this universe is now arising, I am not in the universe, the universe is in my consciousness. Therefore, be consciousness.

 物質としてのあなたの身体は、物質としての家のなかにあり、物質としての家は、物質としての宇宙のなかにある。それは事実である。しかし、あなたは単に物質ないし物理的な存在なのではない。あなたは意識としてのこれそのもの(如)なのである。

But you are not merely matter or physicality. You are also Consciousness as Such, of which matter is merely the outer skin.

その時、物質は単に皮膚のようなものに過ぎない。

 

エゴは、物質的な見方をとる。したがって常に物質的なものに捕えられる。物理的な苦痛にとらわれ、苦しめられる。しかし苦痛もまたあなたの意識のなかで起こる。あなたは苦痛のなかにいるのか、それとも、苦痛をあなたのなかに見出すのか。

But pain, too, arises in your consciousness, and you can either be in pain, or find pain in you, so that you sound pain, are bigger than pain, transcendent pain, as you rest in the vast expanse of pure Emptiness that you deeply and truly are.

後者であれば、あなたは、深々と真のあなたである空性の広大な「開け」に落ち着いて、苦しみをとりまいて、苦しみよりも大きくなり、苦しみを超越することができる。

 

 もしわたしがエゴとして収縮すれば、わたしの身体はこの家のなかに、この家は宇宙のなかにとらえられている。しかし、もし広大で空なる目撃者の意識に落ち着けば、私は身体のなかにいるのではなく、身体がわたしのなかにいる。私は家のなかにいるのではない。家がわたしのなかにある。私は宇宙のなかにいるのではない。宇宙がわたしのなかにある。このことが全く明白になってくるのである。すべては広大で開けており、純粋で光り輝く原初の意識の空間のなかで生起しているのである。それは今、今、今、常に永遠に今、ここで生起しているのだ。それゆえに、意識のままであれ。(『ワン・テイスト』より)

All of them are arising in the vast, open, empty, pure, luminous Space of primordial Consciousness, right now and right now and forever right now.

   Therefore, be Consciousness. (引用ここまで)

 

 

いかがでしたでしょうか?

 1/allは通常の世間レベルの見方で、この世界のなかに私は孤立して存在しているという見方です。私たちは通常、世界のなかに家があり、家のなかに私がいると認識しています。

 それに対しall/allとは、自己=世界となるような、実はこれしかない、その外側には何もない、というような見方です。わたしの原初の意識の空間のなかに世界が生起しているのだ、とウィルバーは言います。

 

そうか!これが法話「あの世めぐり」の答えなのだ、と閃きました。

nagaalert.hatenablog.com

目の前に展開している事象はまったく同じであっても、自己認識の違い、すなわち「1/allとしての自己」としてしか存在しないか、そうではなく「all/allとしての自己」としても存在しうるか、その違いにより、行動が大きく異なってくるということの喩えなのです。

 

冒頭の藤田一照さんの表現に「平板な私」とありました。この表現はまさに私が「ヘキサ・キューブ」と呼ぶ図形を、対角線のある平面六角形として観た場合の認識です。しかしこのヘキサ・キューブは、同時に立方体として観ることができます。

 

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平面六角形の内側にある対角線のように見えていた線分は、実は外側の輪郭の視点から立方体の内側を見ていたのだった。

1/allの「私」は世界のなかに存在していると思っていたけれど、むしろall/allである〈私〉の意識のなかで世界は生起していたのだ。

1/allではなく、all/allとして世界を観るためには、このように意識すればよいのではないでしょうか。長々と失礼しました。