ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

表層意識における概念的「本質」

井筒俊彦著『意識と本質』では、否定的な本質論と肯定的な本質論、表層意識レベルの本質論と深層意識における本質論などなどについて語られている。そのはじめとして今回取り上げる「本質」は表層意識レベルの本質であり、概念的な本質、禅で徹底的に否定されるべき本質(参照2016/11/8「無我とは本質なき実存、主体としての空」)である。

無我とは本質なき実存、主体としての空 - ウィルバー哲学に思う

本書を読み進めていく中でこのブログで触れてきた内容との共通性がいくつか想起されたが、まずはソシュール言語学でいうところのシニフィエ、コージブスキーの示した構造微分図、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)などとの関係に触れることで理解を深めたいと思う。

 

井筒氏は『意識と本質I』でサルトルの『嘔吐』にある言語脱落(本質脱落)を見事に形象化した例として主人公がマロニエの根をベンチで見た時の描写を取り上げている。それがマロニエの根であることに気付かない短い時間に感じた「全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊」に対する嘔吐的体験である。

 

サルトルが『嘔吐』で描いた本質については、Eテレ『100de名著』で「実存は本質に先立つ」というフレーズで解説されていたことを思す。ペーパーナイフでいうなら「切る」という働きが本質である。したがって職人は「切れる」という機能を有するナイフを最初から作ろうとするが、人間はそうではない。人間は生まれながらに医者や教師という働き(本質)が決まっているわけではなく、成長してからその人に適した働き(本質)が定まるのである。すなわち「実存が本質に先立ってある」のである。確かそういう話だった。

 

そこでは、モノの本質を、そのモノの機能や働きとしてとらえていたが、前のマロニエの根の例では、本質とは、それが「何であるか」という「概念」そのものを指している。

 

そうした概念はどこから来るかというと、コトバの本来的意味作用から来る、と井筒氏はいう。

(以下引用)

コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒をつけて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということ

 

老子的な言い方をすれば、無(すなわち「無名」)がいろいろな名前を得て有(すなわち「有名」)に転成するということである。

 

およそ名があるところには、必ずなんらかの形での「本質」認知がなければならない。だから、あらゆる事物の名が消えてしまうということ、つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。そしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。・・・それが「嘔吐」を惹き起こすのだ。(引用ここまで)

 

 

(なぜ、嘔吐なのか?それはこの『嘔吐』の主人公が深層意識の次元に身を据えていない、…実相を視る…それだけの準備ができていないからであるというくだりは大変面白いのだがここでは省略する。)

 

本質脱落=言語脱落であるという。コトバの本来的な意味作用に重要なポイントがあるのだ。このことを別の角度から考えてみよう。

 

ここで思い出すのは、このブログでも何度か取り上げたことのあるソシュール言語学でいうところのシニフィアンシニフィエの関係だ。

 

 

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シニフィアンとは語のもつ感覚的側面のこと。たとえば、海というコトバなら「海」という文字や「うみ」という音声のことである。一方、シニフィエとは、このシニフィアンに表象された海のイメージや海という概念ないし意味内容のこと。シニフィアンシニフィエとの対のことを「シーニュ」(signe)すなわち「記号」と呼ぶ、などと一般的には説明される。

 

 また指示対象そのもののことをレフェランという。

 

ウィルバーは『科学と宗教の統合』でこう書いている。

(以下引用)

ソシュールによれば、言語的な記号(シーニュ)は物質的シニフィアン(書かれた言葉、話された言葉、このページ上の諸々の符号)と概念的なシニフェ(シニフィアンに触れた時に心に浮かぶもの)で構成されている。両者とも実際のレフェラン(指示対象)とは異なる。たとえば木を見ているとすると、その実際の木がレフェランである。書かれた言葉「木」(tree)がシニフィアンであり、その「木」(tree)という言葉を読んだときに心に浮かぶもの(イメージ、想念、心的映像や概念)がシニフェである。シニフィアンとシニフェが合わさってシーニュ全体を構成している。(引用ここまで)

 

 

したがって、井筒氏のいう表層意識における概念的な本質とは、ソシュールのいうシニフィエであるといっていいだろう。本質≒シニフィエだ。

 

このシニフィエを「わたし」に当てはめたのがACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)でいう「概念としての自己」である。これについては次の機会に取り上げる。

 

絶対無分節の「存在」と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線を縦横に引いて事物、つまり存在者、を作り出していく

 

それが人間意識の働きであると井筒氏は書いている。

 

中川吉晴氏のいうコージブスキーの構造概念図を思い出した。

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中川吉晴著『気づきのホリスティック・アプローチ』を参照しながらリアリティが抽象化してしまう過程を振り返ってみたい。まず一番上はEvent(出来事)の次元である。いま起こっていることの全体であり、ありとあらゆる現象を含んでいる。Eventレベル≒絶対無分節「存在」の次元、と位置付けてよいだろう。

その下にある円状の部分はObject、すなわちモノ(対象)の次元である。知覚が人間の神経器官によって限定されるので、人間がそれとして知ることのできるのはこの次元からであり、すでに「第一次の抽象化」が働いている。しかしこのレベルは言い表せないモノのレベルであり、コトバにならないある種の感じ(feeling)として把握される。こうした言語以前の原感覚も意味を含んでおり、人間の生存がそれに基づいているため最も重要である、と中川氏は書いている。

 

これ以下はすべて「ラベル(名づけ)」の次元であり、ここから以降は言語化をともなって抽象化が進む。言語化レベルのはじめの段階は記述(Descriptive)のレベルだ。

 

ACTでは、この「記述」レベルとそれ以降の主観をともなったレベルとの識別を重んじることから、この境目は構造的に異なる次元にあることを、ぜひ覚えておきたいところである。

 

その下は、推論(Inference)のレベル。そして総合的な判断(Generalization)のレベルへと下降し、それ以降の思考過程に終わりはない。

 

コージブスキーはモノの次のレベルを「ラベル(名づけ)」としたが、中川氏いわく「モノ」の次のレベルとして「シンボル化」があり、その次に「概念化」がある。「概念からシンボルへ、さらにシンボルから(微細な)体験過程へと遡っていくことが必要なのである」という。フォーカッシングにつながる流れだがここでは詳しく触れない。

 

話を元に戻すなら、井筒氏のいう表層意識における本質とは、大乗仏教がナーマルーパ(名と形)とよぶ妄念の描き出す画像であり、禅が徹底して否定する「本質」のことである。それはコトバの働きと密接な関係がある。ここでいう本質は「木」というコトバを目にし、耳にした時に心に浮かぶイメージや概念としてのシニフィエであり、実際の指示対象であるレフェランとしての木の豊饒なリアリティから多くのものが削げ落ちた矮小化されたリアリティなのである。

あるいは、推論、判断などによって歪められることを余儀なくされたリアリティなのだ。

 

井筒氏はいう。

概念的「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない。だが現実に、われわれの前にある事物は、一つ一つが生々と自分の実在性を主張しているのだ。

 

 であるから、「本質を無化する」ことが極めて重要なことになってくる。次回ACTでいう「脱フュージョン」との関連においてこのことを取り上げてみたい。