ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

本質の無化から、無「本質」的分節へ

前回に引き続き井筒俊彦氏の『意識と本質』を見ていく。

 

本論に入る前に、井筒氏の使用する「分節」あるいは「無分節」ということばであるが、『意識の形而上学大乗起信論の哲学』のなかでこう解説されている。

 

仏教古来の術語に「分別」という語があって、ほぼ「分節」と同義である。しかし「分別」は現代日本語の口語的用法では、道徳論的含意の響を強くもちすぎるので、「分節」と使ってきた。・・・「分節」とは、字義どおり、切り分け、分割、区劃づけ、を意味する。

  

また本書の本質論について誤解のないように言っておくと、井筒氏は本書で本質の否定論だけを展開しているのではない。大乗仏教にみられる「本質」否定論を取り上げながらも、一方で本質の型を3つに分類してそれぞれの構造をむしろ肯定的に論じてもいる。

 

それらは①宋儒の「格別窮理」に代表される本質、②シャマニズムを特徴づける元型・アーキタイプとしての本質、③孔子の正名論のいう本質である。

 

しかしここでは、『〈仏教3.0〉を哲学する』の中で、永井氏が語った「実存」と「本質」から発展して話を進めているところでもあり、禅で否定される本質を念頭に置きつつ論を進めたい。

以下、今回とくに重要と思われた部分の引用する。 

118

禅は現実を、「本質」によって固定された事物のロゴス的構造体とは見ない。…何々であるとして認知される事物、すなわち「本質」を核とする結晶体は、ことごとく我々の目の曇りのゆえに虚空にあらわれる幻影のごときものにすぎない。

 

 

P119

こうして禅は、すべての存在者から「本質」を消去し、そうすることによって全ての意識対象を無化し、全世界をカオス化してしまう。しかし、そこまでで禅はとどまりはしない。世界のカオス化は禅の存在体験の前半であるにすぎない。一たんカオス化しきった世界に、禅は再び秩序を取り戻す、但し、今度は前と違った、まったく新しい形で。さまざまな事物がもう一度返ってくる。無化された花がまた花として蘇る。だが、また花としてといっても、花の「本質」を取り戻してという意味ではない。あくまでも無「本質」的に、である。だから、新しく秩序付けられたこの世界において、すべての事物は互いに区別されつつも、しかも「本質」的に固定されず、互いに透明である。「花」は「花」でありながら「鳥」に融入し、「鳥」は「鳥」でありながら「花」に融入する。

 

まさに華厳哲学にいわゆる事事無碍法界の風光、道元禅師の言う「水清くして地に徹す、魚行きて魚に似たり。空ひろくして天に透る。鳥飛んで鳥のごとし」(坐禅蔵)の世界。

 

 

 

 

P136

存在の絶対無分節と経験的分節との同時現成こそ、禅の存在論の中核をなすものだ。「無」とか「無心」とかいうと、絶対無分節だけに重心がかかるけれど、・・・絶対無分節でありながら、しかも同時に、それが時々刻々に自己分節して、経験的世界を構成していく。・・・

無分節がそのまま、その全存在エネルギーを挙げて自己分節する。無分節と分節との間に一毫の間隙も置かれてはならない。電光石火。無分節態すなわち分節態。両者の間に一毫の間隙もないということは、しかし、「本質」の介入を許さないということだ。「本質」が介入してこない、無「本質」のままでの存在分節、・・・。

 

 

 

P144

 

 

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この図の解説として、井筒氏はこう書かれている。

 

「分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)」全体構造を的確かつ明快に提示したものといえば、青原惟信の「見山(水)是山」→「見山(水)不是山」→「見山(水)祇是山」にまさるものを私は知らない。・・・第一段階は、普通の人の普通の目で、自己の外なる世界を眺めている。世界は有「本質」的にきっぱりと分節されている。同一律矛盾律によって厳しく支配された世界。・・・(第二段階は)あれほど強力だった同一律矛盾律が効力を失って、山は山ではなく、川は川でなくなってしまうのだ。あらゆる事物が、「本質」という留金を失う。・・・「本質」結晶体が流れ出す。・・・そんな山や川を客体として自分の外に見る主体、我、もそこにはいない。すべてが無「本質」、したがって無分節、・・・。サルトルマロニエの木の根を思い出す。だが、これに続いて次の第三段階があるゆえに、禅の存在体験は、サルトル的実存体験とはまるで違ったものになってしまうのである。

第三段階は再び「有」の世界。第二段階で一たん無化された事物がまた有化されて現れてくる。第一段階の世界と一見少しも違わぬ事物の世界が目の前に拡がる。だが、・・・一つの決定的違いがある。・・・第二段階から第三段階への移りにおいて、それらの分節は戻ってくる。しかし、分節は戻るが、「本質」は戻ってこない。・・・言い換えれば、それらの山や川は「本質」的凝固性をもたない山であり川であるのだ。

  

 

P152

「本質」がもともと実在しない幻影のごときものであり、「本質」に基いて個々別々の事物を個々別々の事物として現象させる存在分節が、従って、本当は妄想分別にすぎないと悟る時、つまり経験界の事物がすべて本当は無「本質」なのだと悟る時、人は「向上」の道への第一歩を踏み出す。・・・事物の無「本質」性を『般若経』『中論』以来の大乗仏教の術語では「空」と呼ぶ。仏教で「本質」に該当する語は「自性」であるので、無「本質」性の意味での「空」を「無自性」ともいう。

 

 

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168

無「本質」の花には花の凝固性がなく、鳥には鳥の凝固性がない。だから互いに浸透し合う。・・・無「本質」的に分節されたあらゆる事物相互の、そして意識と存在との、壮麗な宇宙的相互浸透の場として現成するのである。無分節者が、その本源的無分節性を失わずに、そのまま分節される時、その分節は、重々無尽に浸透し合う透明な存在者の拡がりという形で現れざるをえないのである。

 

 

そして上図の解説がこう展開される。

 

全体として覚知された「無」、すなわち無分節を、一つの空円をもって表すとすると、その空円に充満する全エネルギーが分節の平面上においてa(花)となり、またb(鳥)となって現成する、という形で分節(Ⅱ)の構造を表象することができよう。・・・abとはたしかに分節だが、この分節は、分節()の場合のように存在の局所的限定ではない。すなわち現実の小さく区切られた一部分が断片的に切りとられて、それが花であったり、鳥であったりするのではない。現実の全体が花であり鳥であるのだ。・・・こうして、無分節の直接無媒介的自己分節として成立した花と鳥とは、根源的無分節性の次元において一である。つまりabとは、abとであるかぎりにおいては明らかに区別されているが、空円においては一である。・・・電光のごとく迅速な、無分節と分節との間のこの次元転換、それが不断に繰り返されていく。繰り返しではあるが、そのたびごとに新しい。これが存在というものだ。・・・

 

むむ…この構造は「次元を行き来するヘキサ・キューブ」そのものではないか。

 

nagaalert.hatenablog.com

 

分節されたもの(例えば花)が、その場で無分節に帰入し、また次の瞬間に無分節のエネルギーが全体を挙げて花を分節し出す。この存在の次元転換は瞬間的出来事であるゆえに、現実には無分節と分節とが二重写しに重なって見える。・・・

分節(Ⅱ)の存在次元では、あらゆる分節の一つ一つが、そのどれを取ってみても、必ずそれぞれに無分節者の全体顕現なのであって、・・・分節であるにもかかわらず、そのまま直ちに無分節なのである。・・・

また、すべてのものがそれぞれ無分節者の全体そのままの顕路であるゆえに、分節された一々のものが、他の一切のものを内に含む。花は花であるだけではなくて、己の内的存在構造そのもののなかに鳥(や、その他の一切の分節)を含んでいる。鳥は鳥であるだけではなくて、内に花をも含んでいる。すべてのものがすべてのものを含んでいる。

 

 

むむ…この構造はまさに「ヘキサ・キューブ・フラクタル」ではないか。

 

年初から提唱(?)してきたヘキサ・キューブ構造に、この分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)のフローをあてはめるなら・・・。

 

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分節(Ⅰ)は、対角線で分割された平面六角形(ヘキサゴン)である。

本質の無化、もしくは「無分節」とは、ヘキサキュ―ブの背景にある円空である。

分節(Ⅱ)は、立方体(キューブ)であり、相似形を入れ子状に内包するフラクタル構造で、生の躍動する無「本質」的分節である。

 

以下、思いついたことを箇条書きし、後日のテーマとしたい。

 

・自己を分節(Ⅰ)としてのみ見るのが、ACTでいう「概念としての自己」である。

・経験的事物を分節(Ⅰ)としてしか見られないことが「認知的フュージョン」である。

・自己の「本質」を無化することで、実存である「観察者としての自己」の位置に立つことができる。

・経験的事物の「本質」を無化することで、「脱フュージョン」が可能となり、囚われから脱することができる。

・分節(Ⅱ)として観る(ある)ことは、高度なナラティブ・アプローチであるといえるのではないか。

・自己の内的存在構造の中には、いっさいの分節を含んでいる。すなわち自己はすべてを包含する。

・互いに透明であるとは、存在の相互貫入のことである。

・自己はすべてを包含するとともに、自己はすべてに波及する。