ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

純粋に空なる意識(Pure empty awareness)

前回の元日のブログを検証しようと思って『存在することのシンプルな感覚』からきっかけとなった文章を改めて確認し、他にもわが意に近い文章はどれであろうかとページをめくってみた。

 

まず、「状態」という表現のきっかけとなったのはp119-p120の以下の文章である。

(以下引用)

これが「空」の二番目の、もっとも深い意味です。それは識別できる分離した状態ではなく、むしろすべての状態のリアリティ、如性、ありのままの姿なのです。ここであなたは「元因」から「非二元」に移行した、ということになるでしょう。

Q―「空」には二つの意味があるということでしょうか?

K―そうです。そこが非常に混乱させられる点です。一方で、わたしたちが今見てきたように、それは意識のはっきりと識別できる状態です。すなわち、非顕現への没入、あるいは「止滅」(無分別三昧、ニルヴァーナ)なのですが、これが元因の状態であり、識別できる状態です。

二番目の意味では、「空」とは、単に多くの状態のなかの一つなのではなく、むしろすべての状態の如性、ありのままの姿、あるいは「状態」なのです。それはほかの状態から区別できるものではなく、すべての状態―それが聖なるものであれ、高いものであれ低いものであれ―のリアリティなのです。―『万物の歴史』(CW7:257-258)

 

 

この下から三行目にある「状態」という表現に対する記憶が前ブログのきっかけになっている。ただやや私が書いたこととは矛盾点がある。

 

この『万物の歴史』の文ではsubtle(微細)、causal(元因)が識別できる状態であるのに対し、非二元は「識別できる分離した状態ではない」と書かれている。しかし、私は非二元もまた識別できるかのような特定の状態として位置付けた。これは私の解釈が間違っているのだろうか?しかしながら上の三行目にある「ここであなたは元因から非二元に移行した(You have moved from the causal to the Nondual. )ということになるでしょう」という記述に注目したい。何かから何かへと移行できるような状態とは、識別できる状態であると言えないだろうか。

 

ここで、非二元の持つ二つの側面を思い出してみたい。それは『万物の歴史』に描かれた梯子のすべての段階のベースとして在る、いわば梯子が描かれている頁の紙としての非二元と『インテグラル・スピリチュアリティ』で描かれたウィルバー・コムスの格子にみる状態の究極としての非二元である。

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(『万物の歴史』p208に描かれた発達の梯子)

万物の歴史p212にこう書かれている。「この図表が描かれている紙こそが、最高の段階、実際には段階ですらなく、すべてが顕現される非二元の空の基底なのです」と。

 

一方、その後で出版された『インテグラル・スピリチュアリティ』では、非二元(Nondual)は、「段階」という縦軸と、「状態」という横軸の格子で意識の領域を示しており、非二元(Nondual)とは低い「段階」でも起こりえる一つの「状態」として示されている。

 

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(「ウィルバー・コムスの格子」 出所『インテグラル・スピリチュアリティ』p131)

興味深いのは「目撃者」が、この「W-C格子」の図には入っていないことだ。P112では、目撃者も4番目の状態として以下5つの意識の状態が解説されている。

1.粗大な覚醒の状態

2.微細な夢見の状態

3.元因、無形の状態

4.目撃者の状態

5.常に現前する非二元的意識

 

「目撃者の状態」はこう解説されている。

これは他のすべての状態を目撃する能力である。たとえば覚醒状態にあっても、明晰夢の状態にあっても、目撃者はそれを目撃する。

「能力」であるから状態とは言い切れないということであろうか。そしてこの「能力」は「段階」に比例するということだろう。

 

「常に現前する非二元的意識」はこう解説されている。

これは状態というよりは、他のすべての状態に対して常に現前する基底である。そしてそのようなものとして経験される。

この解説では上の梯子が描かれた紙に近いといえる。

 

次に、わが意に最も近い文章は『存在することのシンプルな感覚』P270-271のなかにあった。

(以下引用)

すべてが神以外の何ものでもなくなった時、そこには何もなく、神もなく、あるのはただ「これ」だけである。

主体も客体もない。ただ「これ」だけである。その状態に入るということはない。その状態から離れるということもない。絶対に、永遠に、常に、すでに、「これ」である。この「ある」というシンプルな感じ。

すべての、いかなる状態にもある、基本的でシンプルな直接性。〔『進化の構造』における〕四つの象限に先立ち、内面と外面の分化に先立ち、見るものと見られるものに先立ち、世界の生起に先立ち、常に今ここにある純粋な「現前」、「ある」というシンプルな感じ、そこにおいて、止むことなく世界が空け、開ける、空なる意識。「私―私」は、宇宙が入ってくる箱である。

「私―私」に落ち着いていると、世界は以前と同じように生起するが、それを目撃しているものはいない。「私―私」が「こちら側」にあって「向こう側」の世界を見ている、ということではない。ここもなく、向こうもなく、あるのはただ「これ」だけなのである。エゴを中心とする世界の終わり、地球、生物、社会、神、などを中心とする世界の終わりである。

 なぜなら、それらは、すべての中心性の終わりだからである。顕現しているすべての領域、すべての時間、すべての場所に置ける脱中心化、非中心化である。ゾクチェン仏教が言っているように、すべての現象はそもそも原初的に、「空」なのである。すべての現象はしたがって、生起するそのまま、ありのままに、おのずから解放されているのだ。

 この純粋に空なる意識のなかで、「私―私」は世界とともに止むことなく生起し、崩壊する。(In that pure empty awareness, I-I am the rise and fall of all worlds.)「私―私」はコスモスを呑み込み、いかなる混乱からも、時間からも、触れられることなく、原初の純粋性と激しい慈悲とともにコスモスを抱いている。進化の悪夢は、決して始まることはなかった。したがって決して終わることはないのである。

生起の瞬間に、すでに、おのずから解放されている。それはただ「これ」である。

「すべて」は、「私―私」である。それは「空」である。「空」は、自由自在に顕現する。自由に顕現するものは、おのずから解放されている(self-liberated)のである。

 禅では、勿論、すべてをもっとシンプルに言っている。そしてただ「これ」だけを直接に指し示すのだ。

 

古池や

かわず飛び込む

水の音

                  (『進化の構造』CW6:318)

 

 

この中で強調文字にした「純粋に空なる意識のなかで」と書かれているpure empty awareness。これが前回のタイトルの「状態に気づいている「状態」」という表現で私が示したかったものである。そしてそれは前回の図として描いた「円相」である。

 

私にはまだ非二元というものがよく分からない。これが非二元だという実感がない。頭で理解しているに過ぎない。

ということで前回ブログの「非二元のような究極の意識状態なのでもない。」というところに( )をつけさせていただいた。

 

やや言い訳がましい記事になってしまいました。(;^_^A

 

しかし「そうか!おのずから解放されている(self-liberated)とは、こういうことかもしれない」という新しい発見もあり、それはまた別の機会に書いてみたいと思います。