ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

財務省官僚にみる「エルサレムのアイヒマン」現象

前回に引き続き、森友問題における財務省理財局の対応について感じたことを書きます。

 昨年9月に放送された、100分de名著『ハンナ・アーレント』の第4回でナチスの中佐でユダヤ人の強制収容所移送の責任者であったアイヒマンの裁判のことが取り上げられていました。

このアイヒマンと今回の理財局の対応が重なって見えるのは私だけでしょうか。

 

アドルフ・アイヒマンとはナチス親衛隊(SS)の中佐だった人物で、ユダヤ人を強制収容所に移送し、管理する部門の実務責任者でした。アルゼンチンに逃げ延びていた彼が拘束されエルサレムの法廷で裁判にかけられた様子が、『エルサレムアイヒマン』のなかでアーレントによって描かれています。

 アイヒマンは多くのユダヤ人を絶滅収容所ガス室へ送ります。殺されたユダヤ人の数は数百万人にものぼるといわれていますが、効率よく、ミスなく淡々とその仕事をこなしたといいます。

 

驚くべきことは、彼は凶悪でも残忍な人間でもなかったことです。

 

この第4回の放送のタイトルは「悪は陳腐である」です。

 

(NHK100分de名著テキスト『ハンナ・アーレント 全体主義の起原』p89-90より引用)

若い頃から、「あまり将来の見込みのありそうもない」凡人で、自分で道を拓くというよりも「何かの組織に入ることを好む」タイプ。組織内での「自分の昇進にはおそろしく熱心だった」とアーレントは綴っています。

そんなアイヒマンの発言のなかで、アーレントが特に注目し、驚かされもしたのが、その徹底した服従姿勢でした。しかも彼は、上役の「命令」に従っただけでなく、自分は「法」にも従ったのだと主張しています。

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人殺しが「罰」せられるのは、それが「法」に反する行為だからです。しかしアイヒマンは、自分は法による統制を尊重し、法を守る市民の義務を果たしたと主張しました。

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アイヒマンにとっての「法」とはヒトラーの意志です。ヒトラーという法に恭順しただけでなく、彼は自分がまるで「法の立法者であるかのように」行動していました。つまり、上から言われたから仕方なくやったのではなく、法の精神を理解し、法が命ずること以上のことをしようと腐心していたということです。その「おそろしく入念な徹底ぶり」は「典型的にドイツ的なもの」であり、「完璧な官僚に特徴」的なものであったとアーレントは指摘しています。(引用ここまで)

  

「残忍な人間による行為」ではなく、「上役であるヒトラーの意志を理解し、命ぜられる以上のことを入念に行おうとした人間による行為」だったことが、驚きなのだというのが「悪は陳腐である」ということの意味でしょう。

 アイヒマンの価値観と仕事への姿勢が、今回の森友問題の理財局の対応と重なります。

 

ウィルバーのインテグラル理論の「統合的なサイコグラフ」が頭に浮かびました。

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統合的サイコグラフとは認知(Cognitive)、自己(Self)、感情(Emotional)、道徳(Moral)、人間関係(Interpersonal)等といった多重知性のラインを横軸に並べ、縦軸では発達段階(レベル)を示します。「認知のレベルは高いが感情のラインにおいては相対的に低いレベルにとどまっている」などといったように、ひとつの知性ラインだけではなく、複数の知性ラインを並べて表現しようとするもので、認知能力だけでは測りきれない全人格的な知性を捉えるようとするとき、大いに役立つツールとなります。

発達ラインと多重知性 - ウィルバー哲学に思う

そして、この森友問題に関与した理財局の官僚の統合的なサイコグラフをイメージするなら、「認知のライン」ではかなり高いレベルにあるが、「道徳(Moral)のライン」では相対的に低いところに留まっているのではないか、と考えられます。

 

もう少し丁寧に掘り下げてみます。道徳(Moral)の発達段階とはどうなっていたでしょうか?以前このブログで取り上げたコールバーグ著「道徳性の発達と道徳教育」から復習してみます。

(前慣習的段階)

第1段階 罰回避と従順志向

正しさの基準は自分の外にあって、他律的。親や先生のいうとおりにすることが正しい。処罰をさけるために規則に従う。

第2段階 道具的互恵、快楽主義 

自分にとって得か損かの勘定が正しさの基準。ほうびをもらい、見返りの恩恵を得るなどために行動する。

 

(慣習的段階)

第3段階 他者への同調、よい子志向

身近な人に嫌われたり非難を受けるのをさけるために行動する。

第4段階 法と秩序の維持

社会の構成員の一人として社会の秩序や法律を守るという義務感から行動する。

行為の動機は予想される不名誉、つまり義務の不履行に対する公的な非難の予測や、人に対して加えた具体的な危害に対する罪の念である。(公的な不名誉が非公式の否認から区別される。悪い結果に対する罪の念が否認から区別される)

 

(ポスト慣習的段階)

第5段階 社会契約、法律の尊重、及び個人の権利志向

道徳的な価値の基準が自律化し、原則的になっている。個人の権利が尊重されているか、社会的公平であるかどうかが問題となる。対等の人々やコミュニティからの尊敬(この場合その尊敬は情緒ではなく理性に基づくと考える)を確保しようとする関心。自分の自尊心についての関心、つまり自分を非合理的で一貫性がなく目的のない人間と判断せざるを得ないようなことを避けようとする関心。

 

第6段階 良心または普遍的、原理的原則への志向

人間の尊厳の尊重が正しさの基準。普遍的な倫理観を持つ。

自分自身の原理を踏みにじることに対する自己非難についての関心。(コミュニティの尊敬と自尊心とが区別される。何かを達成しようとする一般的な合理性に対する自尊心と、道徳原理を維持することに対する自尊心が区別される)

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アイヒマンの発達段階はどこに該当するでしょうか?理財局の当問題関与者の発達段階はどこに該当するでしょうか?

第3段階までは小・中学生でもそこまで進めるレベルなので論外といえます。

私は、アイヒマンのモラルの発達段階は第4段階にあるように感じます。そして理財局の対応も第4段階なのではないでしょうか。

アイヒマンにとってはヒットラーが法なのです。決裁文書の改ざんという違法行為を行った理財局において「法の秩序と維持」が中心の価値基準となっている第4段階は一見矛盾しているように思えるかもしれませんが、理財局においては「法」というよりも「立法府としての国会」、それも「立法府である国会の(官邸側から見た)秩序と維持」が重視されたのではないでしょうか。

第5段階は該当するでしょうか?第5段階を理財局の対応にあてはめてみますと「個人の権利が尊重されているか、社会的公平であるかどうか」という視点が、理財局の対応では軽視されていたことが明白ですので、第5段階には該当しないことが分かります。

 

100de名著テキストには『考えるのをやめるとき凡庸な「悪」にとらわれる』と表現されており、ガイド役の金沢大学仲正教授の伝えたいメッセージがまさにこれであることが伺えます。

アイヒマンを引き合いに出して言いたかったのは、「法の秩序と維持」が中心の価値基準となっている第4段階にもかかわらず、こうした「悪」が行われたことが、驚きなのであり、「悪は陳腐である」という表現の意味でしょう。アイヒマンのように「本当に自分で考えるということをしない」とき、ルールに従っているからとして「考えることを放棄した」とき、大きな悪が行われるのです。

 

では理財局の彼らの頭の中ではこの「法の秩序と維持」を尊重するという道徳意識と、決裁文書の改ざんという違法行為がどのように彼らの頭の中で調整されたのでしょうか?

 

その答えのキーワードはスペシャル番組「100分deメディア論」で語られた「二重思考」にあると思います。このことはまた次回書きたいと思います。