ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

理財局における二重思考と『君たちはどう生きるか』

前回のブログで

 では理財局の彼らの頭の中ではこの「法の秩序と維持」を尊重するという道徳意識と、決裁文書の改ざんという違法行為がどのように彼らの頭の中で調整されたのでしょうか?

 その答えのキーワードはスペシャル番組「100分deメディア論」で語られた「二重思考」にあると思います。

 

 と書きました。

 

私は森友問題の報道と国会に招致された佐川元理財局長の答弁を聞きながら思いました。

 こうした官僚たちの思考はどのように組み立てられ、調整されてきたのだろう。

 おそらく、彼らは公式(フォーマル)と非公式(インフォーマル)の2つのストーリーを並列させてロジックを組み立てているのだ。

 いわばバイロジカルだ。(並立論理というべきか。)

 決裁文書改ざん問題でいえば、改ざん前がインフォーマルでほぼ実態。それに対し改ざん後がフォーマル。

改ざん前では、安倍総理夫人の昭恵氏の名前のほか政治家の名前が並ぶ。局内で昭恵案件などと呼ばれていたという情報もあり、この案件は特殊な昭恵案件だから・・・というのがインフォーマルなロジックである。

しかしそれをオープンにすると国会が紛糾する、あるいは「関与していたなら私は総理も国会議員も辞める」とまで断言した安倍総理が追い込まれかねないことから、フォーマルなロジックとして、昭恵夫人や政治家の関与が破格の土地取引に影響を与えていないもう一つの表面的な論理が考えだされた。すなわち「こういう理由でこうしたといえば万事うまくいく」という取り繕いのストーリーである。

 

 などと、そのとき思いを巡らしました。

 

 

そのイメージを図にしてみますと、こんな感じです。

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事象全体を氷山としてイメージしたものですが、水面上に出ている部分が理財局の主張する事象であり、公式なストーリー、フォーマルなロジックです。それは改ざん後の決裁文書に残された部分であるといえます。

それに対し、この事象には大きく水面下に隠れている部分があり、水面上と水面下の全体で構成されています。改ざん前の決裁文書に書かれていた内容はこの氷山の全体像に近いものを示していると考えられます。これが公表できない非公式なストーリー、インフォーマルなロジックです。

 

こういう実態で非公式なロジックと、公式(表面)では取り繕うロジック、二つのストーリーを頭の中で矛盾なく構成していこうとするのが彼らの思考なのではないかと推察していました。

 

そしてその後、Eテレ「100分deメディア論」をオンデマンドで見ました。

 

解説者4人目の高橋源一郎氏は、「全体主義国家によって統治された近未来の恐怖」をジョージ・オーウェルが小説として描いた『1984年』を取り上げたのですが、その中に出てくる「二重思考(double think)」の解説を聞いて、膝をうちました!

 

私のイメージしていたフォーマルとインフォーマルの並立論理にとても近い概念です。

 

番組では二重思考についてこのように解説されていました。

(ナレーション)

真理省(文化芸術の検閲・統制、過去の記録の改ざん・破棄を行う部署)に勤務する主人公ウィンストン・スミスの仕事は、党にとって都合の悪くなった新聞記事などを指示に従って改ざん、または抹消することでした。

(原文朗読)

日ごとにそして分刻みといった具合で、過去は現在の情況に、合致するように変えられる。このようにして党の発表した予言は例外なく文書記録によって正しかったことが示され得るのである。

またどんな記事も報道記事も論説も現下の必要と矛盾する場合には、記録に残されることは決して許されない。

 

そして国民に求めるのは二重思考という特殊な思考方法、それは入念に組み立てられた嘘を告げながら、どこまでも真実であると認める。打ち消しあう意見を同時に報じ、その二つが矛盾することを知りながら、両方とも正しいと信じること。忘れなければいけないことは何であれ忘れ、そのうえで必要とあらば、それを記憶に引き戻し、そしてまた直ちにそれを忘れること。・・・

 

かつて地球が太陽の周りをまわっていると信じることは狂人のしるしだった。

現在では過去は変更不可能だと信じることがそのしるし。(過去が変更されるのが当たり前になってしまっているということ)

最終的に、党は2足す2は5であると発表し、こちらもそれを信じなくてはならなくなるだろう。

・・・

自由とは2足す2が4であるといえる自由である。

その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる。

 

二重思考」のことを高橋さんはこう解説します。

Step1 新しい事実を嘘だとわかっていても認める

Step2 (そのあと)嘘だったということを忘れる

Step3 (するとまったくちがう)正反対の事実を、事実として受け入れる。

というふうに頭を変えていく、これが二重思考

 

 

そしてまた、最近読んだ、リバイバルのベストセラー吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』の一節とシナプスが繋がりました。

 

後半の山場は、主人公のコペル君が、親友の北見君が上級生に殴られるのを黙ってみていて助けに出て行けず、「僕は卑怯者になってしまった」と自己嫌悪する場面です。他の二人の親友は約束通り出ていきました。もしそんなことになったら、僕たちは助けられないかもしれないけど「一緒に殴られるよ」と、4人みんなで誓い合っていて、自分もそう約束したはずだったのに、実際にその場面では足がすくんで出て行けなかったのです。

(以下p237-239より引用)

コペル君の頭には、いろんな言い訳が浮かんできました。第一に、北見君たちが上級生につかまって殴られたとき、コペル君が最初から見ていたということは、北見君や水谷君は知らなかったにちがいありません。

 ですから、コペル君がおかしいなと思って引き返してみたら、もう北見君たちが殴られたあとだった、といっても北見君たちは気が付かないかもしれません。

「そうだ、そういえば、自分があの場所に飛び出さなかったことも、北見君は悪くとらないだろう。だって、飛び出さなかったんじゃなく、飛び出そうにも間にあわなかったことになるもの―」とコペル君は思いました。

しかし、浦川君のことを考えると、コペル君はハタと行き詰りました。浦川君は見物人の中にいたのです。だから、コペル君が初めから見ていたことを知っているかもしれません。そうすれば、こんなウソは、すぐわかってしまいます。

では、病気を理由にしたらどうでしょう。

「あの騒ぎのとき、僕はなんだか寒気がしてならなかったんだ。きっと、もう、あのとき、病気になっていたんだろう。気分が悪くて、気分が悪くて、立っているのがやっとだった。僕が飛び出していかなかったのは、ほんとうに悪かったけれど、病気のせいだったんだからゆるしてくれないか」そういってあやまったら、みんなは快くゆるしてくれはしないかしら。

・・・この言い訳もダメです。

じゃあ、こういったらどうかしら―

「僕は、約束どおり黒川たち(上級生)の前に飛び出そうとしたんだけど、そのとき、ふとこう考えたんだ。ここは飛び出すのを思いとまって、よく事件を見とどけ、あとでちゃんと証人に立つ方がいいのではないかと、そうそれば、先生は僕の言葉を信用するし、黒川たちは罰をくうにきまっている。だから北見君たちのかたきを討つためにも、僕だけは、飛び出したいのを我慢して、じっと事実を見とどけた方がいい。実は、そう考えたもんだから、僕は、あのときわざと出なかったんだ」

なるほど、こういえば、自分がいかにも考えのある人間のようになりますし、あの時約束を守らなかったことに対しても、一応の弁解はつきます。

しかし、そういっても、北見君たちが、それを信用するでしょうか。また万一信用して、北見君が「そうか、済まなかった。そうとは知らなかったもんで、僕たち君のことを悪く思っていて、ごめんね」とあべこべにあやまりでもしたら、コペル君は平気でいられるでしょうか。もしそんなことになったら、コペル君は、とてもいたたまれないに違いありません。それこそ、友達を本当に欺くことになるではありませんか。

誰ひとりほかに知っている人はなくとも、コペル君の心には、はっきりと、あの嫌な記憶が残っています。「北見の仲間は、みんな出てこいっ」とどなった黒川の声、その声を聴くと同時に、思わず、雪の玉をもった手を背中に回した自分!そして、そっと人に知られないように、雪の玉を捨てた自分!・・・

 

この本では、主人公のコペル君は、やがて言い訳を考えるのをやめます。親友3人に、本当に済まなかったという気持ちがわいてきて「僕が悪かった」と素直に謝りたい気持ちになります。そして叔父さんの勧めもあって手紙を書くのです。

 

コペル君の数々の心の中の言い訳を聞いていると、一昔前に流行った「あーいえばこういう、あーいえばじょうゆう」を思い出しますね。取り繕いのロジックです。

 

引用文の下線を引いた「友達」という言葉を、「国民」に置き換えてみてればどうでしょう。

それでも二重思考を実践している人たちは、「とてもいたたまれない気持ち」にならないのでしょうか。