ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

記憶に残る3つのブログ記事

このブログを本格的に書き始めたのは、2009年の元日からです。

 

今年の年末で10年を迎えるということで、自分なりに記憶に残るブログ記事、自分にとって大きな変化につながったブログ記事はどれであったかを考えました。

 

今回はこの10年間の前半、2009年から2014年までの5年間で、強く記憶に残っている自分のブログ記事を3つ取り上げ、簡単に振り返ってみたいと思います。

 

まず、

nagaalert.hatenablog.com

です。

この2009年9月25日のブログ記事を書いた時のことは今でもはっきり覚えています。不安なことがあって、胸がやや締め付けられるような感覚があり、その内容についてあれこれ思いを巡らしていたのですが、ふと、こんな時こそ、今まで(このブログで)積み重ねてきたことを実践すべき時だということに気づき、やってみました。

記事に書いている通り、自分でも驚くほどの状態の転換が起こりました。

 

理論的にはまだまだ未整理な段階ではありましたが、試行錯誤から一つの確信に変わった、自分にとって大きな出来事でありました。

 

二つ目のブログ記事は2011年12月26日の

nagaalert.hatenablog.com

 です。

 

丁寧な説明が全くない無礼な自分の用のブログ記事なのですが、図にして表現しただけあって、これまで何度もここに立ち戻ることができています。この基本構造は今でも大きく変わっていません。「世界」や「他者」などいくらか追加するパーツは増えましたが。

 

 

そして三つ目は、2014年12月27日の

nagaalert.hatenablog.com

です。

 

黒澤明が選んだ100本の映画」のうちの一本である(Wikipedia)とされる映画です。

ここに私が書いたようなインスピレーションをどれほど意識して作られたのかは定かではありません。たくさんのお金を持つものがリッチなのではなく、多くの友人を持つ者こそ本当のリッチなのだというメッセージが映画の終盤で流れますので、表面的にはそのように見て十分感動できるクリスマス映画だといえます。

 

しかし私がこの映画がから得たインスピレーションは

 

わたしと世界はセットである

 

ということです。

 

25年ぐらい前に読んだジョアンナメイシ―の『世界は恋人 世界はわたし』(World as Lover, World as Self)を、もう一度買って読みたくなりました。

 

以上、駆け足ですが10年前から5年前までの「記憶に残る3つのブログ記事」を振り返ってみました。

病理的ヒエラルキーの温床としての家父長的家制度

ノモンハン責任なき戦い』と題したノモンハン事件(1939年、日本の死傷者は2万人)のドキュメンタリー番組を見ていて、なぜこうした甘い見通しの無責任かつ服従的なヒエラルキーが出来上がったのか?いつから日本はこうなってしまったのか?という疑問が頭の隅にあり、一方で個人的な問題から戦前の民法の旧規定と家父長的家制度を調べているうちに、その両方がかなり繋がっていることが見えてきた。

 

www6.nhk.or.jp

まず8月19日NHKスペシャルではこう報じられていた。

司馬遼太郎は、「一体こういう馬鹿なことをやる国は何なのだろう。日本とは何か、日本人とは何か」と書いている。

取材を進めた司馬は陸軍の上層部のあり様に、嫌気がさし執筆を断念したという。

ある幹部は「敵の能力を軽視し、甘い見通しで戦争に突入した。」と証言した。

「陸軍の上層部は、国の重大事にもかかわらず、あいまいな意思決定、あいまいな対応に終始し現地軍の暴走を止めることができなかった。」

「敗北の責任は現場に押し付けられていった」「敗北の教訓は生かされなかった。2年後に起こった太平洋戦争で同じ失敗が繰り返された。敵の実力を軽視し甘い見通しで始めた戦争。敗戦が決定的になったあとも無謀な作戦が繰り返され部隊の全滅が相次いだ」と。

  

一方で個人的な理由から戦前の民法(明治31年制定)と戦後の民法(昭和23年制定)の違いや家父長制について調べていて、

特に参考になったのは申 蓮花氏の『日本の家父長的家制度について』である。

http://www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun8-4/shen.pdf

いくつか抜粋してみると・・・

 

家父長的家は中世から始まり、また近世に武士階層で定着したが、「家父長的家制度」つまり家父長的家を制度化したのは近代の明治政府である。

家族の地位順は戸主(家父長)を一番に、下は儒教的な順番で尊属、直系、男性を上に、卑属、傍系、女性を下にし、戸主優位を確立し家族員への統制を可能にした。

相続は嫡出長男相続制をとることで兄弟争いや家産の細分化を防ぎ家自体の存続を保てるように規定した。

なぜ、明治政府は家父長に統制権を与えたのか。

それは明治政府の中央集権的な統制の構造(天皇―政府―府県―区長―戸長―戸主)にあるという。

戸主すなわち家父長はその統制の末端にあり、このような統制構造を通じて家々までその統制が行き届いた。

それは明治政府の「富国強兵」実現のためであり、それを支える「地租改正」と「徴兵制」を浸透させるために天皇から家までの一貫した統制構造が必要だったという。

〈親子の服従関係〉・・・家父長が家の全権であり、子どもに収入があっても財布は家父長が握り、子どもは家父長に完全な「孝」を強要されていた。

〈子供達の地位差〉・・・家産の相続者としての長男の地位は高く、次三男の地位は格段に低い。娘の地位は家産の持ち出しになると考えられさらに低かった。

〈女性への差別〉・・・嫁になる前にまず相手の家に入って、舅姑らに気に入られ、合格と判断されてやっと結婚ができる。結婚する前は親に従い、結婚後は夫に従い、夫亡き後は息子に従うべきという「三従」といわれる封建的束縛。

この統制構造を通じて国民の一人一人を統制でき、政策を貫通できることによって「富国強兵」が実現可能となった。家父長的家制度の親子関係を国家と家の関係に利用され「家族的国家観」に発展し、やがて忠孝のために人々は命を捨てて戦争に飛び込んだ、

 

などと書かれている。

 

やや一面的で荒っぽい見方のような気もするが、納得がいった、腑に落ちた感がある。

 

病理的ヒエラルキーは、上位のホロンがその地位を不法行使して下位のホロンを支配しようとするときに起こる。  nagaalert.hatenablog.com

もし高位のレベルが低位のレベルに強い影響力を行使できるなら、高位のレベルは低位のレベルを過剰に支配したり、抑圧したり、疎外さえしたりできることになる。このことがただちに、私たちを個人および社会全体における多くの困難な病理現象の問題に導く。

 

日大アメフト部のレッド的ヒエラルキーが短期的には奏功し日本一を奪還できたが、しかしその後内部から崩壊していった姿と、富国強兵―家父長的家制度という統制構造が、日清・日露戦争では短期的には奏功(?)したものの、時とともに病理的ヒエラルキーと化し、ノモンハン事件での惨劇、2年後にその惨敗が顧みられることなく太平洋戦争に突入する無謀さ、ヒエラルキー構造が内部から腐っていった姿が重なる。

 

その意味では、家父長的家制度は病理的ヒエラルキーの温床として働いたのである。

 

そしてさらにこうした病理的ヒエラルキーはハラスメントの温床となっていく。

 

昨今取りざたされるパワハラ、セクハラの背景に、こうした「女性への差別意識」「地位差にもとづく服従関係」があるのは間違いない。それは中世から始まり明治政府によって強固に制度化された家父長的家制度によって醸成され、戦後になって民法が改定された後もなお慣習的に温存されてきたものではないだろうか。

 

このことは、「ティール組織」※の考察と関連して、また書きたいと思います。

 

※『セルフマネジメント(自主経営)』や『ホールネス(全体性)』、『組織の存在目的』など、従来のものとは大きく異なる独自の組織構造や慣例、文化を持つ次世代型組織モデル。ウィルバーの提唱するインテグラル理論を経営組織に適用したもの。

追いつめて服従させる「レッド組織」

(出典:フレデリック・ラルー著『ティール組織』)

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日大アメフト選手の記者会見、その後、日大の監督とコーチの記者会見を見ていて、森加計問題に引き続き、また出た、エルサレムアイヒマン現象!と思いました。そしてさらに、ああ分かった、この組織(日大アメフト部)には、「レッド」の価値観(RED−Power Worldview)が息づいているのだ、と。

 

選手は練習からはずされ、選ばれていた日本代表も辞退するよう命令され、当日の試合もスタメン落ち、するという形で、精神的に追い詰められていました(『クローズアップ現代』での日大アメフト部OBの話によると、このような追いつめ方は当該監督の常套手段だといいます)。

そこで関西学院大の司令塔であるQBをつぶせば出場させてやると言われ、悪質タックルを実行するに及びました。

監督とコーチは重大な反則行為を、チームとして指示したのです。

コーチは記者会見で、選手に変わってほしかった、闘争心を出してほしかった、と何度も言いました。

選手に成長してほしかった、などとコーチは言っていましたが、それは「成長」ではなく発達や倫理の段階をむしろ「落ちる」ことだったのだと私には思われました。

 

RED−Power Worldview 「レッド‐力の世界観」については2009年8月22日のブログでウィルバーのインテグラル理論より紹介させていただきました。

発達とは人類の進化を辿ること - ウィルバー哲学に思う

 

この価値観が、最近興味深く読み進めている『ティール組織』(フレデリック・ラルー著)で、発達段階の下から3番目の組織内価値観として次のように解説されています(個人の価値観の発達段階や組織(集団)の進化の段階を7つの色で表現する。ちなみに本書が進化型として取り上げる「ティール」は「レッド」よりも4段階上の第7のステージです)。

 

(『ティール』組織P32より引用)

衝動型〔レッド〕組織

この組織は、まず強力な上下関係が原始的な王国へと成長する過程で形成された、小規模で支配的な集団という形で現れた。現代ではギャングやマフィアなどにまだまだ見られる組織である。今日のレッド組織は、現代風のツールやアイデアを取り入れ、武器や情報技術を駆使して組織的犯罪を考案している。しかし、その組織の構造と慣行は、たいていレッド・パラダイムの中で形成されている。

 レッド組織の決定的な特徴とは何だろうか?対人関係に力を行使し続けることであり、それが人と人を結びつける要素になっているという点だ。オオカミの群れはよい比喩だ。オオカミの群れでは、「アルファ・ウルフ」呼ばれるトップが、自らの地位を維持するために必要に応じて力を使う。これと同じく、レッド組織の長がその地位にとどまるためには、圧倒的な力を誇示し、他の構成員を無理やり従わせなければならない。一瞬でも隙を見せると、他のだれかに寝首をかかれてしまう。トップは少しでも安定を得ようと、自分の周りを(他のメンバーよりはたいてい忠実な)家族〔ファミリー〕で固め、獲物を分け与えて忠誠を買う。トップの側近メンバーも自分の配下の面倒を見て彼らを統率する。

 全体としては、正式な階層も役職も存在しない。・・・トップはいつも残虐性を示して罰を与え続けねばならない。組織の崩壊を防ぐのは恐怖と服従だけだからだ。・・・

 

 

これはセルマンの対人関係能力の発達段階のレベル1に対応します。

Interpersonal知性と、セルマンの役割取得能力 - ウィルバー哲学に思う

発達段階レベル0では、自己中心的な対人関係しか取れないため、自分を押し通す方(他社変容志向)は「暴力」に訴え、自分を曲げる方(自己変容志向)は「逃げる」ことになります。レベル1に発達すると、自分と相手の違いは区別できるようになるので、自分を通す方は「命令や脅し」という方略を取ります。それに対し自分を曲げるタイプは「従う(服従)、諦める、助けを待つ」という対応を取ります。

 

監督は人事権を握ることでポジション・パワーを発揮してコーチにハラスメントを行うことが可能になりました。コーチの約半数は日本一のマンモス大学である日大の職員だといいます。コーチにプレッシャーをかけて人事権を背景に絶対服従の関係を確立したのです。

選手に対しても日大OBネットワークを駆使し卒業後の進路に対して大きな影響力を行使するといいます。

選手はアメフト選手として積み重ねてきた将来の夢を諦めるか、監督コーチに従うかの厳しい選択を迫られることになったのです。

 

一昨日の『クローズアップ現代』によると

前監督時代からのスパルタ式指導法、それで70年~80年代は日本一になったが、90年代になり選手の価値観も変化して求心力低下。内田監督に代わったがスパルタ式、昭和の指導法は変えず、求心力を大学の人事権を握るという方法で獲得した。

コーチでも選手の前で殴る(コーチも半分が職員であり人事権のある監督に逆らえない構造)。

コーチも選手も監督には絶対服従(卒業後の人事権まで握ることによる)。

まじめで、有望な学生がターゲットで、まず試合や練習から外す、精神的に追い詰められ、自分にどこか悪いところがあったのではないか?と考えさせ、そこで変われ!もっと成長するためだなどと言って、そして服従させ、ラフプレーを実行させる。

などなど・・・。

 

人を脅して言うことを聞かせようというレッドの組織論、これが日大アメフト部には息づいているのだと思われます。

 

しかし今回考察してみて分かったことは、アンバー組織であれ、オレンジ組織であれ、大なり小なり、私たちが嫌な思いをした時には、そのような立場を利用した脅迫めいた空気が、局所的あるいは断片的にかもしれませんが、漂っているのではないでしょうか。

 

レッドの価値観は、今もハラスメント(パワハラ、セクハラを含むモラル・ハラスメント)の形で、さまざまなところでひそかに息づいているのです。

 

モラル・ハラスメントについてはまた別の機会に取り上げたいと思います。

「見せかけの不運」から「高次の秩序」へ

3月6日のブログで『見せかけの不運』について書いた。

 

ある出来事を、その出来事単独で、その時の自分にとって好ましい事、好ましからざる事で分けて、あれは良い出来事、これは悪い出来事、前回は幸運な出来事、今回は不運な出来事というように判断する。人生において起こる事柄に対し、無意識でいると、ついついこのよう見方をしてしまう。

 

しかしそうではない見方がある。異なる見方にシフトするためのキーワードが「見せかけの不運」、あるいは「不運に見せかけた幸運」であった。一見、不運のように見えるが、長い目で見直すと一概にそうとは言えない。あるいはそのことがきっかけになって様々なことへ波及していった自分の人生を振り返るなら、むしろあの不運があったればこそ次のステージへ人生が展開していったのだという場合、それは「不運に見せかけた幸運」であったといえる。

 

しかしそれを後になってそう思うのでなく、いま一見そうした不運に見える出来事に見舞われているこの最中に、そうした見方にシフトすることができたなら、困難を乗り越える一助になるだろう。

 

そして久しぶりにエックハルト・トールのA New Earthに目を通していて、次のような一文に目が留まった。

 

(p194引用拙訳)

人は、中身(content)だけを自分と考え、「自分にとって何が良くて何が悪いのか、そんなことは分かっている」と考える。

いろいろな出来事を「自分にとって良いこと」と「悪いこと」に区別する。

しかしそれでは「人生の全体性」(wholeness of life)を断片的に認識することになる。

じつはその背景ではすべてが絡み合い、あらゆる出来事が「総体」(totality)の中で、あるべき場所と機能を有しているのに。

「総体」は、ものごとの表面だけを見ていては分からない。

「総体」は、部分の総和以上のもの、あなたの人生や世界の中身以上のものだから。

人生でも世界でも同じ。

一見ランダム(偶然)な、それどころかカオス(混沌)とさえいえる出来事の連なりの奥に、「高次の秩序」(higher order)や目的が隠されている。

禅ではこれを「好雪片々として別所に落ちず」と美しく表現する。

私たちは、思考を通しては、この「高次の秩序」を理解することはできない。

私たちが考えるのは中身についてなのに、「高次の秩序」は意識の無形の領域、普遍的な知性から生じているから。

でもそれを、垣間見ることはできる。

否、それ以上に、高次の目的へと至る道程の意識的参画者(conscious participant)として、その「高次の秩序」に合わせる(align with)こともできる。

・・・

隠された「調和」と「聖性」を感じ取れれば、あなたのある側面がそれと一体であることに気づく。

そこに気づけば、あなたはその「調和」の意識的な参画者になれるのだ。(引用ここまで)

 

 

このことを当ブログのシンボルマークである「円相ヘキサキュ―ブ」で表してみたい。

 

「出来事の一つ一つを良い悪いと断片的に認識すること」とは、

この図形を平面六角形(ヘキサゴン)として、その中身の各々の三角形を良い悪い(白or黒)と分けてバラバラに見ること。これはウィルバーの言葉では「知の眼」でみることである。

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「ランダムな、カオスとさえいえる出来事の連なりの奥に、高次の秩序(higher order)や目的が隠されている」とは、

 

この図形の対角線に一定の秩序を見出し、ひとつの全体(wholeness)である3次元立方体(キューブ)として見ることである。三角形の集まりに見えた図形は、視点を変える(次元を繰り上がる)ことで、ムダのない秩序ある全体に変貌する。

これはウィルバーの言葉では「観想の眼」でみることである。

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「人は、中身(content)だけを自分と考え」とあるが、前頁にこう書かれている。

 

では中身以外に何があるのか?その中身の存在を可能にしているもの、それは「意識の内なるスペース」(The inner space of consciousness)である。

 

「意識の内なるスペース」は、円相ヘキサキュ―ブの「円相」に対応する。ウィルバーの言葉では目撃者(Witness)だ。Awarenessといってもよい。

その中ですべてが生起する空開処(Openness)である。

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すなわち「中身の自己」とだけ同一化し、Witnessの視点をもたないなら、人生の出来事はバラバラの断片である。それは良い事と悪い事がランダムにやってくるカオスである。

 

しかし、意識の内なるスペースであるWitnessに安らぐことができるなら、華厳のインドラの網のような、「高次の秩序」の存在を感じ取れるはずだ。

 

出来事を良い悪いと判断せず、ありのままを見れば、井筒のいう分節I→本質の無化→分節Ⅱが起こる。

ヘキサゴン→円相→キューブ、すなわち「円相ヘキサキュ―ブ」。

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私は、いま起こっている事の背景に、「高次の秩序」を感じ取れるだろうか。

Rest as the Witness!目撃者に安らぐ。

さすれば「見せかけの不運」から、さらなる高み「高次の秩序」への道が開けるだろうか。

 

 

理財局における二重思考と『君たちはどう生きるか』

前回のブログで

 では理財局の彼らの頭の中ではこの「法の秩序と維持」を尊重するという道徳意識と、決裁文書の改ざんという違法行為がどのように彼らの頭の中で調整されたのでしょうか?

 その答えのキーワードはスペシャル番組「100分deメディア論」で語られた「二重思考」にあると思います。

 

 と書きました。

 

私は森友問題の報道と国会に招致された佐川元理財局長の答弁を聞きながら思いました。

 こうした官僚たちの思考はどのように組み立てられ、調整されてきたのだろう。

 おそらく、彼らは公式(フォーマル)と非公式(インフォーマル)の2つのストーリーを並列させてロジックを組み立てているのだ。

 いわばバイロジカルだ。(並立論理というべきか。)

 決裁文書改ざん問題でいえば、改ざん前がインフォーマルでほぼ実態。それに対し改ざん後がフォーマル。

改ざん前では、安倍総理夫人の昭恵氏の名前のほか政治家の名前が並ぶ。局内で昭恵案件などと呼ばれていたという情報もあり、この案件は特殊な昭恵案件だから・・・というのがインフォーマルなロジックである。

しかしそれをオープンにすると国会が紛糾する、あるいは「関与していたなら私は総理も国会議員も辞める」とまで断言した安倍総理が追い込まれかねないことから、フォーマルなロジックとして、昭恵夫人や政治家の関与が破格の土地取引に影響を与えていないもう一つの表面的な論理が考えだされた。すなわち「こういう理由でこうしたといえば万事うまくいく」という取り繕いのストーリーである。

 

 などと、そのとき思いを巡らしました。

 

 

そのイメージを図にしてみますと、こんな感じです。

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事象全体を氷山としてイメージしたものですが、水面上に出ている部分が理財局の主張する事象であり、公式なストーリー、フォーマルなロジックです。それは改ざん後の決裁文書に残された部分であるといえます。

それに対し、この事象には大きく水面下に隠れている部分があり、水面上と水面下の全体で構成されています。改ざん前の決裁文書に書かれていた内容はこの氷山の全体像に近いものを示していると考えられます。これが公表できない非公式なストーリー、インフォーマルなロジックです。

 

こういう実態で非公式なロジックと、公式(表面)では取り繕うロジック、二つのストーリーを頭の中で矛盾なく構成していこうとするのが彼らの思考なのではないかと推察していました。

 

そしてその後、Eテレ「100分deメディア論」をオンデマンドで見ました。

 

解説者4人目の高橋源一郎氏は、「全体主義国家によって統治された近未来の恐怖」をジョージ・オーウェルが小説として描いた『1984年』を取り上げたのですが、その中に出てくる「二重思考(double think)」の解説を聞いて、膝をうちました!

 

私のイメージしていたフォーマルとインフォーマルの並立論理にとても近い概念です。

 

番組では二重思考についてこのように解説されていました。

(ナレーション)

真理省(文化芸術の検閲・統制、過去の記録の改ざん・破棄を行う部署)に勤務する主人公ウィンストン・スミスの仕事は、党にとって都合の悪くなった新聞記事などを指示に従って改ざん、または抹消することでした。

(原文朗読)

日ごとにそして分刻みといった具合で、過去は現在の情況に、合致するように変えられる。このようにして党の発表した予言は例外なく文書記録によって正しかったことが示され得るのである。

またどんな記事も報道記事も論説も現下の必要と矛盾する場合には、記録に残されることは決して許されない。

 

そして国民に求めるのは二重思考という特殊な思考方法、それは入念に組み立てられた嘘を告げながら、どこまでも真実であると認める。打ち消しあう意見を同時に報じ、その二つが矛盾することを知りながら、両方とも正しいと信じること。忘れなければいけないことは何であれ忘れ、そのうえで必要とあらば、それを記憶に引き戻し、そしてまた直ちにそれを忘れること。・・・

 

かつて地球が太陽の周りをまわっていると信じることは狂人のしるしだった。

現在では過去は変更不可能だと信じることがそのしるし。(過去が変更されるのが当たり前になってしまっているということ)

最終的に、党は2足す2は5であると発表し、こちらもそれを信じなくてはならなくなるだろう。

・・・

自由とは2足す2が4であるといえる自由である。

その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる。

 

二重思考」のことを高橋さんはこう解説します。

Step1 新しい事実を嘘だとわかっていても認める

Step2 (そのあと)嘘だったということを忘れる

Step3 (するとまったくちがう)正反対の事実を、事実として受け入れる。

というふうに頭を変えていく、これが二重思考

 

 

そしてまた、最近読んだ、リバイバルのベストセラー吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』の一節とシナプスが繋がりました。

 

後半の山場は、主人公のコペル君が、親友の北見君が上級生に殴られるのを黙ってみていて助けに出て行けず、「僕は卑怯者になってしまった」と自己嫌悪する場面です。他の二人の親友は約束通り出ていきました。もしそんなことになったら、僕たちは助けられないかもしれないけど「一緒に殴られるよ」と、4人みんなで誓い合っていて、自分もそう約束したはずだったのに、実際にその場面では足がすくんで出て行けなかったのです。

(以下p237-239より引用)

コペル君の頭には、いろんな言い訳が浮かんできました。第一に、北見君たちが上級生につかまって殴られたとき、コペル君が最初から見ていたということは、北見君や水谷君は知らなかったにちがいありません。

 ですから、コペル君がおかしいなと思って引き返してみたら、もう北見君たちが殴られたあとだった、といっても北見君たちは気が付かないかもしれません。

「そうだ、そういえば、自分があの場所に飛び出さなかったことも、北見君は悪くとらないだろう。だって、飛び出さなかったんじゃなく、飛び出そうにも間にあわなかったことになるもの―」とコペル君は思いました。

しかし、浦川君のことを考えると、コペル君はハタと行き詰りました。浦川君は見物人の中にいたのです。だから、コペル君が初めから見ていたことを知っているかもしれません。そうすれば、こんなウソは、すぐわかってしまいます。

では、病気を理由にしたらどうでしょう。

「あの騒ぎのとき、僕はなんだか寒気がしてならなかったんだ。きっと、もう、あのとき、病気になっていたんだろう。気分が悪くて、気分が悪くて、立っているのがやっとだった。僕が飛び出していかなかったのは、ほんとうに悪かったけれど、病気のせいだったんだからゆるしてくれないか」そういってあやまったら、みんなは快くゆるしてくれはしないかしら。

・・・この言い訳もダメです。

じゃあ、こういったらどうかしら―

「僕は、約束どおり黒川たち(上級生)の前に飛び出そうとしたんだけど、そのとき、ふとこう考えたんだ。ここは飛び出すのを思いとまって、よく事件を見とどけ、あとでちゃんと証人に立つ方がいいのではないかと、そうそれば、先生は僕の言葉を信用するし、黒川たちは罰をくうにきまっている。だから北見君たちのかたきを討つためにも、僕だけは、飛び出したいのを我慢して、じっと事実を見とどけた方がいい。実は、そう考えたもんだから、僕は、あのときわざと出なかったんだ」

なるほど、こういえば、自分がいかにも考えのある人間のようになりますし、あの時約束を守らなかったことに対しても、一応の弁解はつきます。

しかし、そういっても、北見君たちが、それを信用するでしょうか。また万一信用して、北見君が「そうか、済まなかった。そうとは知らなかったもんで、僕たち君のことを悪く思っていて、ごめんね」とあべこべにあやまりでもしたら、コペル君は平気でいられるでしょうか。もしそんなことになったら、コペル君は、とてもいたたまれないに違いありません。それこそ、友達を本当に欺くことになるではありませんか。

誰ひとりほかに知っている人はなくとも、コペル君の心には、はっきりと、あの嫌な記憶が残っています。「北見の仲間は、みんな出てこいっ」とどなった黒川の声、その声を聴くと同時に、思わず、雪の玉をもった手を背中に回した自分!そして、そっと人に知られないように、雪の玉を捨てた自分!・・・

 

この本では、主人公のコペル君は、やがて言い訳を考えるのをやめます。親友3人に、本当に済まなかったという気持ちがわいてきて「僕が悪かった」と素直に謝りたい気持ちになります。そして叔父さんの勧めもあって手紙を書くのです。

 

コペル君の数々の心の中の言い訳を聞いていると、一昔前に流行った「あーいえばこういう、あーいえばじょうゆう」を思い出しますね。取り繕いのロジックです。

 

引用文の下線を引いた「友達」という言葉を、「国民」に置き換えてみてればどうでしょう。

それでも二重思考を実践している人たちは、「とてもいたたまれない気持ち」にならないのでしょうか。

 

財務省官僚にみる「エルサレムのアイヒマン」現象

前回に引き続き、森友問題における財務省理財局の対応について感じたことを書きます。

 昨年9月に放送された、100分de名著『ハンナ・アーレント』の第4回でナチスの中佐でユダヤ人の強制収容所移送の責任者であったアイヒマンの裁判のことが取り上げられていました。

このアイヒマンと今回の理財局の対応が重なって見えるのは私だけでしょうか。

 

アドルフ・アイヒマンとはナチス親衛隊(SS)の中佐だった人物で、ユダヤ人を強制収容所に移送し、管理する部門の実務責任者でした。アルゼンチンに逃げ延びていた彼が拘束されエルサレムの法廷で裁判にかけられた様子が、『エルサレムアイヒマン』のなかでアーレントによって描かれています。

 アイヒマンは多くのユダヤ人を絶滅収容所ガス室へ送ります。殺されたユダヤ人の数は数百万人にものぼるといわれていますが、効率よく、ミスなく淡々とその仕事をこなしたといいます。

 

驚くべきことは、彼は凶悪でも残忍な人間でもなかったことです。

 

この第4回の放送のタイトルは「悪は陳腐である」です。

 

(NHK100分de名著テキスト『ハンナ・アーレント 全体主義の起原』p89-90より引用)

若い頃から、「あまり将来の見込みのありそうもない」凡人で、自分で道を拓くというよりも「何かの組織に入ることを好む」タイプ。組織内での「自分の昇進にはおそろしく熱心だった」とアーレントは綴っています。

そんなアイヒマンの発言のなかで、アーレントが特に注目し、驚かされもしたのが、その徹底した服従姿勢でした。しかも彼は、上役の「命令」に従っただけでなく、自分は「法」にも従ったのだと主張しています。

・・・

人殺しが「罰」せられるのは、それが「法」に反する行為だからです。しかしアイヒマンは、自分は法による統制を尊重し、法を守る市民の義務を果たしたと主張しました。

・・・

アイヒマンにとっての「法」とはヒトラーの意志です。ヒトラーという法に恭順しただけでなく、彼は自分がまるで「法の立法者であるかのように」行動していました。つまり、上から言われたから仕方なくやったのではなく、法の精神を理解し、法が命ずること以上のことをしようと腐心していたということです。その「おそろしく入念な徹底ぶり」は「典型的にドイツ的なもの」であり、「完璧な官僚に特徴」的なものであったとアーレントは指摘しています。(引用ここまで)

  

「残忍な人間による行為」ではなく、「上役であるヒトラーの意志を理解し、命ぜられる以上のことを入念に行おうとした人間による行為」だったことが、驚きなのだというのが「悪は陳腐である」ということの意味でしょう。

 アイヒマンの価値観と仕事への姿勢が、今回の森友問題の理財局の対応と重なります。

 

ウィルバーのインテグラル理論の「統合的なサイコグラフ」が頭に浮かびました。

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統合的サイコグラフとは認知(Cognitive)、自己(Self)、感情(Emotional)、道徳(Moral)、人間関係(Interpersonal)等といった多重知性のラインを横軸に並べ、縦軸では発達段階(レベル)を示します。「認知のレベルは高いが感情のラインにおいては相対的に低いレベルにとどまっている」などといったように、ひとつの知性ラインだけではなく、複数の知性ラインを並べて表現しようとするもので、認知能力だけでは測りきれない全人格的な知性を捉えるようとするとき、大いに役立つツールとなります。

発達ラインと多重知性 - ウィルバー哲学に思う

そして、この森友問題に関与した理財局の官僚の統合的なサイコグラフをイメージするなら、「認知のライン」ではかなり高いレベルにあるが、「道徳(Moral)のライン」では相対的に低いところに留まっているのではないか、と考えられます。

 

もう少し丁寧に掘り下げてみます。道徳(Moral)の発達段階とはどうなっていたでしょうか?以前このブログで取り上げたコールバーグ著「道徳性の発達と道徳教育」から復習してみます。

(前慣習的段階)

第1段階 罰回避と従順志向

正しさの基準は自分の外にあって、他律的。親や先生のいうとおりにすることが正しい。処罰をさけるために規則に従う。

第2段階 道具的互恵、快楽主義 

自分にとって得か損かの勘定が正しさの基準。ほうびをもらい、見返りの恩恵を得るなどために行動する。

 

(慣習的段階)

第3段階 他者への同調、よい子志向

身近な人に嫌われたり非難を受けるのをさけるために行動する。

第4段階 法と秩序の維持

社会の構成員の一人として社会の秩序や法律を守るという義務感から行動する。

行為の動機は予想される不名誉、つまり義務の不履行に対する公的な非難の予測や、人に対して加えた具体的な危害に対する罪の念である。(公的な不名誉が非公式の否認から区別される。悪い結果に対する罪の念が否認から区別される)

 

(ポスト慣習的段階)

第5段階 社会契約、法律の尊重、及び個人の権利志向

道徳的な価値の基準が自律化し、原則的になっている。個人の権利が尊重されているか、社会的公平であるかどうかが問題となる。対等の人々やコミュニティからの尊敬(この場合その尊敬は情緒ではなく理性に基づくと考える)を確保しようとする関心。自分の自尊心についての関心、つまり自分を非合理的で一貫性がなく目的のない人間と判断せざるを得ないようなことを避けようとする関心。

 

第6段階 良心または普遍的、原理的原則への志向

人間の尊厳の尊重が正しさの基準。普遍的な倫理観を持つ。

自分自身の原理を踏みにじることに対する自己非難についての関心。(コミュニティの尊敬と自尊心とが区別される。何かを達成しようとする一般的な合理性に対する自尊心と、道徳原理を維持することに対する自尊心が区別される)

nagaalert.hatenablog.com

アイヒマンの発達段階はどこに該当するでしょうか?理財局の当問題関与者の発達段階はどこに該当するでしょうか?

第3段階までは小・中学生でもそこまで進めるレベルなので論外といえます。

私は、アイヒマンのモラルの発達段階は第4段階にあるように感じます。そして理財局の対応も第4段階なのではないでしょうか。

アイヒマンにとってはヒットラーが法なのです。決裁文書の改ざんという違法行為を行った理財局において「法の秩序と維持」が中心の価値基準となっている第4段階は一見矛盾しているように思えるかもしれませんが、理財局においては「法」というよりも「立法府としての国会」、それも「立法府である国会の(官邸側から見た)秩序と維持」が重視されたのではないでしょうか。

第5段階は該当するでしょうか?第5段階を理財局の対応にあてはめてみますと「個人の権利が尊重されているか、社会的公平であるかどうか」という視点が、理財局の対応では軽視されていたことが明白ですので、第5段階には該当しないことが分かります。

 

100de名著テキストには『考えるのをやめるとき凡庸な「悪」にとらわれる』と表現されており、ガイド役の金沢大学仲正教授の伝えたいメッセージがまさにこれであることが伺えます。

アイヒマンを引き合いに出して言いたかったのは、「法の秩序と維持」が中心の価値基準となっている第4段階にもかかわらず、こうした「悪」が行われたことが、驚きなのであり、「悪は陳腐である」という表現の意味でしょう。アイヒマンのように「本当に自分で考えるということをしない」とき、ルールに従っているからとして「考えることを放棄した」とき、大きな悪が行われるのです。

 

では理財局の彼らの頭の中ではこの「法の秩序と維持」を尊重するという道徳意識と、決裁文書の改ざんという違法行為がどのように彼らの頭の中で調整されたのでしょうか?

 

その答えのキーワードはスペシャル番組「100分deメディア論」で語られた「二重思考」にあると思います。このことはまた次回書きたいと思います。

病理的・支配的ヒエラルキーとしての森友問題

昨日の元財務相佐川理財局長の証人喚問にまで至った一大スキャンダルの森友問題であるが連日の国会の答弁やマスコミに報道を目にしながら、これはウィルバーのいう「病理的・支配的ヒエラルキー」によって引き起こされた問題であると思った。

 

ヒエラルキー(hierarchy)とは階層構造のことであるが、ウィルバーは自然的ヒエラルキーと支配者的ヒエラルキーを分けてこう述べている。(以下、 「万物の歴史」p47より引用)

 

自然的ヒエラルキーは、たんに全体性の増えていく順序です。例えば、素粒子から原子、細胞、生物体へ、または文字から言葉、文章、段落へ、あるレベルの全体は次のレベルの全体の部分になるのです。

 言い換えれば、通常のヒエラルキーはホロンから成るのです。そこでケストラーは「ヒエラルキー」は実は「ホラーキー」と呼ばれるべきだ、といったのです。物質から生命、生命から心への、事実上すべての成長過程は自然的ホラーキー、またはホーリズムおよび全体性の増える順で起こり―ある全体は新たな全体の部分になる―で、それが自然的ヒエラルキーまたはホラーキーなのです。

  

一方で

 

自然的ホラーキー内のどれかのホロンがその位置を不法行使して全体を支配しようとすると、病理的または支配的ヒエラルキーができるのです。ガン細胞が肉体を支配する、あるいはファシストの独裁者が社会体制を支配する、あるいは抑圧的自我が有機体を支配するなどなど。

 

今回の森友問題では、財務省理財局に何らかの(一応いまの段階ではこう表現しておく)圧力がかかり、その上層とその下部階層である理財局の間に病理的あるいは支配的ヒエラルキーができあがったのだと言えよう。

 

また、『進化の構造Ⅰ』のp39にはこうある。

(以下引用)

もし高位のレベルが低位のレベルに影響力を行使できるなら、高位のレベルは低位のレベルを過剰に支配したり、抑圧したり、疎外さえしたりできることになる。このことがただちに、私たちを個人および社会全体における多くの困難な病理現象の問題に導く。(引用ここまで)

 

まさに森友問題の公文書書き換え事件では、このような高位レベルからの影響力が行使され、理財局を、ひいては近畿財務局を、過剰に支配し、違法行為である決裁文書の改ざんにまで至らせたのである。

(「指示はなかった」と佐川氏は証言したが、内面への影響力が行使された可能性は否定していない)

 

そして、リーアン・アイズラーの言葉を引用して次のように言う。

 支配的な階層とは、力あるいは力の行使の公然または隠然たる脅しに基づいた階層のことである。こうした階層は、低位から高位の秩序に移行する機能組織の進化―例えば細胞から器官、そして生体へ―などに見られる階層構造とは非常に違っている。このタイプの(健全な)階層は自己実現的な階層と性格づけることができよう。その機能が組織の潜在的な力を最大限に発揮させることにあるからである。これに比して、力または力による脅迫に基礎をおいている人間の階層は、個人の創造性を抑圧するばかりでなく、結果として人間の低位の資質を強化し、(慈悲や同情、あるいは真理や正義などの探求といった)人間の高い欲求を組織的に抑圧する社会システムを生み出すのである。

 

今回の事件では、財務省(理財局)の本来あるべき姿が、「力あるいは力の行使の公然または隠然たる脅しに基づいた」支配的な階層によって、機能不全に陥り、その構成員らが本来もつべき「真理や正義の探求といった欲求」が組織的に抑圧されたのである、と言えるのではないだろうか。

 

それが国会の停滞だけでも一年以上におよぶのであるからこの組織の機能不全によって私たち国民の逸失した利益は大きい。

 

そしてこうした病理現象を治癒する方法としてウィルバーはいう。同p40

 あらゆるシステムにおいて、こうした病理現象を治癒する方法は同じである。病理的なホロンを探り当て、階層をもとの調和した状態に戻すことである。階層それ自体を根絶することは治癒にはならない。・・・病気になったシステムを治癒する道は、上昇または下降の因果関係の力を乱用してシステム全体の中で不当な位置を占めているホロンを探り当てることである。これがさまざまな領域に見る治癒の道である。・・・治癒は階層それ自体をなくすことではなく、不当なホロンを探り当て、統合することにある。

 

 森友問題では、この「不当なホロンを探り当てる」プロセスがまだまだ道半ばである。

 

そしてそのプロセスが完了したのち、もとの調和した状態に戻す、あるいは統合するプロセスが進められなくてはならない。

 

ホロンについては、

 リアリティは部分/全体であるホロンから構成されている - ウィルバー哲学に思う

を参照ください。この問題についてはまた書きたいと思います。