ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

私とは誰か?自己同一性のライン

今回はインテグラル理論の発達ラインの中の自己同一性(セルフ・アイデンティティ)のラインを取り上げたいと思います。

LeovingerとCook-Greuterがその研究者として名前が上がっていたので、探していたらクイーンズ大学の心理学のサイトの中にコンパクトにまとめられたCook-Greuterの研究の解説が見つかりました。http://psyc.queensu.ca/~irwinr/psyc250/Cook-Greuter.htm
以下はその拙訳です。(→に続く部分は私のコメントです。)

Susan Cook-Greuterはハーバード大学の研究者で、Robert Keganとともに研究し、数年間、活動してきたSRAD(成人発達研究のソサイエティ)のメンバーです。彼女はJane Loevingerの自我の発達モデルを研究し、ワシントン大学のSentence Completion Test(WUSCT)を使って数千のプロトコルを採点しました。彼女は自我の発達の晩期の段階に焦点を当て、データ上、Leovingerの分析方法では明らかにされなかったことを判別しました。Cook-GreuterはそのモデルにおいてLeovingerが論じたよりも高い段階の存在について論じました(Cook-Greuter, 1990, 1994, 1995)。以下に続く彼女の仕事のプレゼンテーションの中では、彼女の最も新しい用語を使用しています(Cook-Greuter, 1995)。

私たちが関心をよせる人生の期間においては(ポスト慣習的あるいはポストパーソナル段階、Cook-GreuterがConstruct-Awareと呼ぶ段階)、人々にいくつかの重要な様式の変化がみられます。そのような変化の一つの側面は言語に対する新しい態度です。発達の早い段階では、言語はコミュニケーションを提供するものとして評価され、人々が概念的な地図の上でリアリティを別々の実体へと認知的に袋詰めすることを可能にします。晩期の成熟した段階では、言語は横たわるリアリティのフィルターとして体験され、それゆえ体験の豊饒さは省かれてしまうのです。人々はConstruct-Aware(構築への気づき)段階において、無濾過のリアリティ(unfiltered reality)を感知することを切望します。慣習的なラベルと定義に拘束されないリアリティの潮流と変化に憧れるのです。



→Construct-Awareはターコイズに対応した段階です。はじめは気づきの構築と訳していたのですが「構築(物)に気づくのだ」と思い直し、「構築への気づき」にしました。その特徴の一つが「無濾過のリアリティ」への指向というのはいいですね。最近は限定販売の無濾過の生原酒にはまっていますのでこのような訳をしました。言葉の持つシニフィエのデメリットへの気づきですね。「リアリティを別々の実体へと認知的に袋詰めする」ことは、まさに「分別」であり、この段階から無分別知への憧れが始まるということでしょう。

同様に人々はより高い段階で自我の機能に対して新しい態度を体験します。発達の早い段階では、複雑さや矛盾をもって働きながらも―それは自分自身について考えることで―ある種の内省的な楽しみや喜びを抱きますが、Construct-Awareというより高い発達の段階においては、「客観的な自己アイデンティティ」を完全に疑問視し、もはやそれまでのようなやり方でコントロールすることを望まないようになります。創発した成熟の眺望ポイントからみると、心の社会的劇場の中に存在してきた自己イメージにとって、セルフコントロールするためには、大変注意深くあること、用心深くあることが求められました。自己意識はひとつの形の制約として経験されるのです。Construct-Aware段階の人々はもうひとつの、非‐管理、「無‐境界」を基礎とした存在のモード、深く根差した習慣から解放された経験のモード、努力を要しない「本来の開け」に根ざした存在のモード、エゴに根ざさず存在するモードを直感します。しかしながら好ましくない点として、このエゴに対する態度の変化は、心配のレベルを増大させ、自己肯定を引き下げ、孤立化を促進します。そして虚無の感覚(feeling of being "nothing.")の瞬間にさえ導くものでもあるのです。



→コントロールを手放すのがこの段階の2つ目の特徴です。Let It Beですね。Being "nothing."を「虚無」と訳しました。ネバーエンディングストーリーを思い出しました。

Cook-GreuterはこのレベルをConstruct-Awareと表現します。この移行は子ども時代、前表象(pre-representational)段階から表象(representational)段階へ発達することの意義に相当するものであると彼女は言います。それは言語を学習する形態において、広範かつ社会的な繋がりを要求されるものであるからです。同じようにConstruct-Aware段階への移行は、表象と称される形態からポスト表象(post-representational)への発達段階にリンクしたものとして、大変特別な修養の(cultural)サポート、(さらなる社会化を要求するのではなく)子ども時代に要求されたそれとはまったく異なる性質の支援を要求するでしょう。修養のサポートは規範とルールの単純な内面化を超えていくことを必要とされます。これらの支援には、瞑想テクニック、系統(門)、教師らのことが含まれます。



→cultural supportsを文化的支援と訳してはニュアンスが違いすぎると考え、「修養の」と訳しました。この段階においては精神修養の支援が必要というわけです。

Cook-Greuterは、Construct-Aware自己が、その世界のフィルターを通した性質や、言語次第であること、そしてコントロール下にあるかたくなな自我の幻想の継続性に左右されること、に気づいていることを呈示します。そんな自己が古い習慣とより直接な(im-mediate)リアリティへと突破するための長い時間にうんざりするとき、私は、スピリチュアルな実践に着手するための準備としてその自己を描写することを提案したいと思います。聴覚から触感へと比喩を切り替えることで、私たちは体験のありのままの状態(naked mode)を切望する成熟した自己を描写することができます。瞑想は生の、そして間に介在のない(un-mediated)レベルで知覚と接触を保つ、規律正しい実践として特徴づけられます。それには防御的なカバーの必要も、概念的なフィルターの必要もありません。


→「ありのまま」、「あるがまま」。ゴッホの椅子赤い富士。「聴覚から触感へ」という訳は少々悩みましたがBrief moments are just fineのことです。

もう一度、もうひとつの比喩を取り上げましょう。―今度は努力と抵抗の触感体験に基づく比喩ですが―この段階での変化は、より大きなコントロールを用いて大きな自律性を確保することに方向づけられた意識から、全くコントロールを放棄することに方向づけられた意識への移行です。そしてこれはどのような瞑想の実践であるかが関係します:それは握りしめ固守することでコントロールしようとするエゴの不断の欲求をかわす規則正しいマインドフルを含んでいます。コントロールを放棄しながらも、瞑想実践は、私たちが広く目覚め、マインドフルであることを要求するのです。ひとたび自己管理の慣習的な形態が捨て去られたなら、もはや私たちは安易に、貪欲あるいは好色あるいは空想が引き起こすどんなことにも屈することはないでしょう。本当に瞑想は不可避なメンタルループに対する解決策を提供するように見えます。管理を超えていくための努力の使い方、それがConstruct-Aware段階に存在するソリューションであるとCook-Greuterは見なしています。


→このマインドフルは、「今ここ」に集中した状態(State)ですね。状況をコントロールしようとするのでなく、マインドフルな状態を維持することです。4つのSです。

Cook-Greuterは自我の発達を実証的に研究し、私たちがここでトランスパーソナルな発達と等しいとみなす変化について明らかにしました。彼女はJane Loevingerのワシントン大学における文章完成テスト(WUSCT)のデータをもとにしました、それは被験者自身の考えで36の関連した文を書いて完成させることを彼らに求めるという投影法的な評価手段です。彼女は符号化法(コーディング法)によって被験者の文章の完成度を正確に分析しました。答えのレベルによって発達段階が明らかにされたのです。

Cook-Greuterは、Loevinger理論によってデータを分析することを試み5/6(5と6の間)を提案しました。Cook-Greuterは第5段階(Autonomous)と第6段階(Unitive)の両方から5/6(Construct-Aware)段階をはじめて区別しました。彼女は5と5/6の間を区別する符号の意味を発展させたと報告したのです。未熟な評価者をちゃんとした水準にまで育て上げることができたということです。(相関は0.79から0.95へ、クローンバックのα係数は0.95、評価者中の同意率は93.3%)

Construct-Aware段階の特徴は、じっと自我に埋め込まれていた意識、今なお発達のパーソナルなレベルに浸漬されていた意識、そしてさらに表象的に思考することが当たり前となって作動している意識が明らかとなることです。そして今やそんな限界を超えて存在への憧れが膨らみ、存在することのトランスパーソナルなモードを切望するのです。

Loevingerモデルを改定したCook-Greuterヴァージョンによると、幼児は自我をもたずに世界に生まれ、自分を取り巻く世界から自分自身を識別できません。幼児が母親から分離しはじめるにつれ、彼または彼女はまず衝動と同一化します。そして褒美と罰によって抑えられます。これがImpulsive(衝動的)段階です。子どもは褒美と罰がどのように外側の世界を動かすのかを学びながら、彼または彼女はセルフコントロールの最初の形態を発達させます。Self-Protective(自己防衛的)段階の到来です。しかしConformist(体制順応的)段階への到達によって、子どもは全幅的に集団と同一化します。子どもは社会に馴染み、十分それと同一化します。事実、子どもには他者の声から切り離された自己がありません。子ども(あるいは青年)は称賛(承認)を求めます。こうしてすばらしく、従い、そして共同するのです。


→話題の1Q84でもそのような登場人物が設定されていますが、アンバーであるConformistの段階にある小学生がクラスメイトという集団に同一化できない場合、どのような影響が発達面に起こるのでしょうか? 小児がんサバイバーの心の成長を考える上で大切な視点の一つです。

しかし、今はまだ人生は内面的ではなく、私たちがpsychological(心理的)と呼ぶものではありません。グループの規範や評判とは離れた主体的人生の正しい認識(appreciation)をもたないのです。内面的人生の幕が開くにつれ、子どもはSelf-Aware(自己認識)段階へと入っていきます。自己は規範や期待とは、はっきり違ったものとなり、それは確かな内省の対象となります。それゆえ文化的期待に対し異議を唱える空間を創造します。Conscientious(良心の)段階の達成とともに、成長した子ども、あるいは青年は集団とは一線を画した自分自身の自己あるいはアイデンティティを有するといわれます。役割は十分に内在化されますが、もっと意識的ではっきりと彼自身のものとなります。自己選択が標準となり、性格の特徴は内面世界の部分として概念化されます。時代と社会をこえて推論し省察できるので、自我は豊かな心理的因果関係を構築します。成熟した若者は今や大人の世界に入る準備ができたのです。



→ガードナーのいうIntrapersonal知性の芽生えでしょう。オレンジの段階に対応します。

しかし、それは発達の終わりではありません。Conscientious段階の後は、Individualistic(個人主義的)段階です。若者から単純な理想がよく聞かれます。自己確信(self-certainty)は内面的な矛盾の感知へと移行します。自己は役割アイデンティティから距離を置きはじめます。「客観的事実」の今や疑問視された地位と引き換えに主観的経験が強調されます。発達に対する正しい評価があり、内側と外側のリアリティの間の不一致を認めます。自己と他者に対する大きな寛容、矛盾への正しい評価があります。


→グリーンです。多元主義。どのような他者の価値観も公平に認めようとすることが非視点的狂気に向かいます。各価値観の深さを評価できません(深さを評価すべきでないと考えます)。秘かに卒業したはずの自己中心性が再び正当化され息を吹き返します。グリーン/レッド複合体が形成されます。

しかしIndividualisticにAutonomous(自律的)段階が取って代わり、自己はさらに心理的複雑さを統合し超越します。良心の役割は希薄となり、感情依存(or信頼,emotional dependencies)は抑圧されるよりむしろ承認されます。そしてセクシャリティはもっとオープンに受け入れられます。人々はより大きな社会の全体性の部分として解釈されます。自己は区切られたアイデンティティをより統合しながら、自己実現と自己決定にもとづく意味の形態を目指します。次の段階、Construct-Awareでまさに自己の実在性が問われるのです。



→第二層に入りました。ティールです。マズローの欲求の発達段階では、このAutonomousと次のConstruct-Awareが自己実現欲求に対応し、下のUnitiveの段階は自己超越欲求に対応します。

しかしこの段階がUnitive(一如)段階によって超えられることはめったにありません。Unitiveな自己は創造のプロセスに深く根差し、グローバルなそして普遍的なヴィジョンに基づいています。有形の(concrete)ものや一時的なもの(temporal)は、永遠の部分として理解されます。物事はあるがまま(as they are)に受容されます。自我の境界は超越されます。存在の進行するプロセスへの没入があります。発達の早いレベルにおいて、自己の虚無性(nothingness)は心配を誘発するものとして経験されますが、Unitive段階では、拡大した、オープンなよりリラックスした自己が、受け入れられます。存在の中心そして奥底においてそれは本当に「無(“no-thing”)」であると。


→Unitiveを「統一的」あるいは「統合」と訳そうかと思っていましたが、調べているうちに「心身一如」はmind-body unityと表現することが分かりました。この段階の説明内容からも「一如」がふさわしいように感じましたのでこれを採用しました。nothingness of the selfは自己の虚無性と訳しました。これは実存的病理のもととなるネガティブなnothingの性質でしょう。それに対し最後の”no-thing”は、noとthingを分けて書いていることから、どんなもの、どんなこととも同一化しない自己であると考えられます。前回のブログで実存的能力のところで「特定の価値観、世界観と同一化する」のではなく、自らを空としてそれらを対象化することを見ましたが、「見ることのできるすべてのものは見るものではない」ことから、純粋な主体すなわち自己は「無」となります。主体としての空です。

今回はCook-Greuterの自我の発達段階を見てきましたが Construct-Aware段階の特徴が2つあげられていました。「無濾過のリアリティ」と「コントロールを手放す」です。これは言葉をかえて言うなら「ありのまま」と「起こるがまま」です。あるいは両方を含めて「あるがまま」です。「あるがまま」への憧憬と、迫りくる「虚無」との葛藤・・・第二層の青春がConstruct-Aware段階にはあるのかもしれません。