ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

根源的恐れを明け渡すレベル1

前回のブログの続きです。インテグラル理論の「タイプ」のひとつであるエニアグラムを考察しています。

エニアグラムのそれぞれのタイプには、健全なレベル、通常のレベル、不健全なレベルという1から9のレベルがあります(レベル1が最高、レベル9が最低)。これは恐れに対する反応のレベルといえます。健全なレベルから通常のレベルに落ち込む時に出るのが「目覚めの注意信号」でタイプ8なら「事を起こすために押し進み、闘わなければならないと感じる」です。イエローカードと言えるでしょう。(…20年前を思い出しました。)

「各タイプは他者をどう操作するか」もタイプごとに特徴があります。タイプ8なら「人を支配し、自分の言う通りに要求することによって」ですし、タイプ2なら「人のニーズや欲求を見つけだし、依存関係をつくりだすことによって」です。

また、通常のレベルから不健全なレベルに落ち込む時には「鉛の法則」という、際立って悪い特徴が生じると書かれています。「自分がしてほしくないと思っていることを、人にもせよ」という無意識の反応です。タイプ8の鉛の法則は「人に傷つけられ、コントロールされることを恐れるため、威嚇することで、傷つき、コントロールされると人に感じさせる」ということになります。自分が攻撃されたくないから他者を攻撃するという対応です。う〜ん、かなり人間性が崩壊してきました。

そしてその不健全なレベルに入る時に出るのが「警告信号となる恐れ」であるといいます。これはもう、レッドカードですね。タイプ8なら「人が自分にそむき、報復するだろう」と思いはじめるとあります。・・・最悪ですね。

タイプ8という性格においてレベルが下がっていくときの特徴を見ましたが、二つの場合に不健全なレベルに落ちていくことがあると書かれています。そのひとつは失業や、離婚、死別、健康や金銭の大変な状況など重大な人生の危機です。もうひとつは、子供時代に不健全なパターンが確立されている場合(虐待などによって)だといいます。

・・・考えさせられますね。先日、子どもを喪失した親の集いをテレビ会議で行いました。テレビ会議システムによる喪失家族コミュニティの可能性を探るためです。

そして今、この「性格への対応が不健全に落ち込んでいくプロセス」を知って頭の中に構造化したことは、死別をはじめとして人生の重大な危機にあった時に、今ここで書いているような知識があるのとないのとでは大違いになってくるだろうということです。

少なくとも性格の落ち込み(気分ではない)のメカニズムを知っていれば、イエローカードやレッドカードのシグナルに気づいて不健全レベルまで落ち込むことを防げるかもしれません。逆にこうした性格のメカニズムに関する知識がなければ、状況によって無意識に不健全なレベルにはまりこんでしまう危険性があるのです。

いま、ここで学んだことは極めて重要なのではないでしょうか。

エニアグラムが示すように人には9つのタイプの性格がある(水平的)。
それぞれのタイプには健全から通常、不健全までの9つの成長レベルがある(垂直的)。
人生の重大な危機などをきっかけにして、レベルが大きく下がることがある。
レベルが下がることによって招く人間関係はさらに深刻なものとなる。

タイプ8なら、人を威嚇したり、人が報復するだろうと思いこんでいたりする精神の状況が招く人間関係が悲惨であろうことは疑いの余地もありません。

そのような泥沼化を未然に防止できる可能性があるということです。

そしてこのようなメカニズムを知っていることは、逆に大きな飛躍にもつながります。

エニアグラムが示すように人には9つのタイプの性格がある。
それぞれのタイプには健全から通常、不健全までの9つのレベルがある。
根源的恐れにとらわれているほどレベルが低く、気づいて手放せるほどレベルが高い。
恐れと防衛が増すほどレベルが下がり、性格構造から自由になるほどレベルが上がる。

根源的恐れとは死や消滅、すなわち無に対する恐れから派生した各タイプの恐れであり、タイプ8では「他者に傷つけられ、コントロールされることへの恐れ」です。そしてこの根源的恐れに気づき、それを手放すタイプ8のレベル1は「自己の明け渡し」であり、「常に周囲をコントロールしなければならないという思い込みを手放す」と書かれています。

Surrender ですね。

最近見つけた親鸞の「他力」に関する記述を思い出しました。
アメリカでの浄土真宗入門書『Ocean』には以下のような、めざめの事例が描かれているそうです。

今、1人の船乗りが海に放り出され、泳いでいることを想定する。
大海の真っ只中をその人はどこかの島へたどり着くべく必死に泳ぐが、その方向感覚も無く、力も尽きようとして絶望の中にいる。
その時、海の深淵から「力を抜きなさい。力むのをやめなさい。そのままでいいのです。南無阿弥陀仏」と声が聞こえてきた。
その人は、自分の力でむやみに泳ぐことを止め、仰向けになると力まなくても海が自分を支えてくれることを知って安心した。
「本当は、初めからずっと大丈夫だった」のだが、自分の力に頼りすぎて自分を見失っていたことにめざめた。
それから、空の星の位置から自分の位置を確かめ、方向を定めて、風向きを計算しながら島のある方向に気を持ち直して(大きく意識を変えて)泳いでいったと・・・。

図らずもまた確信をもつことができました。

What to do ではなく、大切なのはHow to beです。

そしてもうひとつ心に浮かびました。宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」の中で、かみついたキツネリスに、ナウシカがいったあの言葉を紹介して終わりにしたいと思います。

おいで さあ ほら怖くない 怖くない
ほらね 怖くない ねっ。
おびえていただけなんだよね。