ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

絶えまない欠乏の感覚(a sense of lack)をもたらすもの

インテグラル・ジャパン代表である鈴木規夫さんのブログの次の文章、に惹かれるものを感じ、特にa sense of lackとthe Atman Project にピクンとしてDavid LoyのLACK AND TRANSCEBDENCEを購入しました。

http://integraljapan.net/wordpress/suzuki/?p=218より引用

世界的な仏教学者であるDavid Loyは、人間の意識の根源に息づく感覚を「欠乏の感覚」(“a sense of lack”)と形容する。

たとえどれほど努力をして目標を実現することができても、そこには必ず新たな空虚感と欠乏感がもたらされ、われわれはさらなる追求に駆り立てられることになる(こうした無限に継続するプロセスのことをウィルバーは“the Atman Project”と形容する)。


最近買ったこの本をまだ部分的に拾い読みをしている段階ですが、面白いなと感じたのは、

私たちには共通して絶えまない「欠乏の感覚」がある。その私たちの絶え間ない「欠乏の感覚」をもたらすものは、「無根拠性(groundlessness)」である。

という点です。

The Pain of Being Humanの章にこう書かれています。(以下引用拙訳)


実存主義者は人間の条件としての苦悩を強調します。精神分析家は神経症を追跡します。…しかし人でいることは、なぜそんなに苦痛なのでしょうか?なにが私たちに苦悩と心配をもたらすのでしょう?
 …私の批評は将来の消滅への脅威から、いま経験される根拠の無い苦悩へと移ります。この無根拠性(groundlessness)は通常、絶えまない欠乏の感覚(gnawing feeling of lack)として私たちの意識に現れ、私たち各々の意識的あるいは抑圧された感覚は、「何かが違っている (something is wrong with me)」というものです。…それは、自我とは意識の強い核なのではなく、心的な構築物で、空虚を隠すために紡がれた網の目の中心なのだということです。それらの構築物がひどく傷つくと、それは私たちに死の事実を思い出させるのでとても不快で不機嫌になります。存在論的な私たちの切望があらわになります。自己はリアルであることを望む。私たちを満たすことのできる存在(being)以上のものは何もない、のです。
…抑圧された「欠乏の感覚」とは、本来備わっている自己感覚なのです。


この「無根拠性」とは何か?それは「自性がないこと」、すなわち「空」だということでしょう。無自性です。すべては相互依存的に連携生起する、それ故にそのものだけで実体のあるものなどない、ということだと思います。ケン・ウィルバー「進化の構造2」(松永太郎訳)の注釈P424にこう書かれています。(以下引用)

龍樹の言う縁起―現象間の時間的、因果的な連結の概念―とは、独立した、無条件的な、自己生成的な現象などないことを意味している。すなわちすべての現象は相互依存的なのである。…相互依存性とは、非現実の特徴なのである。相互依存している実体は、それ自体では無であるから、それは見かけのリアリティしか構成しない。それは無条件的、絶対的なリアリティではない。「現象が、非現実ないし空であるのは、それは依存的だからである。相互依存性は、非現実の特徴である」

この最後の「相互依存性は、非現実の特徴である」にはシビレました。

それはともかく、私たちの二元論的なものの見方こそが、絶えまない欠乏の感覚、時としてアルコールやドラッグあるいはテレビ等への依存症のもとにもなる空虚な感覚をもたらしているのだということです。

そしてこの章の最後、P101に、このようにまとめが書かれています。(以下引用拙訳)

罪と不安は、外来の偶発的なもの(adventitious)ではなく、エゴに本来備わった内在的(intrinsic)なものです。ショーペンハウエルサルトルは宇宙の形而上学的な構造のなかに、自己の欠乏を置き(ground)ました…
 私の仏教の解釈によれば、人生への私たちの不満は、死への脅威よりもむしろ抑圧から、より直接に引き起こされます:それは「私」はリアルではない、という疑念です。自己感覚は、自己の実在(self-existing)ではなく、欠乏としてその無根拠性(groundlessness)を経験する心的な構築物なのです。私たちは、この欠乏の感覚(sense- of- lack)が、心理療法が存在論的な罪(guilt)と基底不安(basic anxiety)について発見してきたものと一致することを見てきました。私たちはさまざまなやり方でそれを対象化することでこの欠乏に対処し、プロジェクトを通してそれを解決しようとします。しかしそれは根本的な問題に取り組んでいないので成功できないプロジェクトなのです。
… そうです、仏教によると私たちの最も問題となる二元論は、死を恐れる生なのではなく、それ自体の無根拠性を恐れるもろい自己感覚なのです。その無根拠性を受け入れ(accepting)明け渡す(yielding)ことによって、私は常にインドラ網(注)に根ざしていた(grounded in)のであり、自己完結的(self-enclosed自己閉鎖的)な存在としてではなく、すべてを包み込む関係性の網目としてのひとつの顕現であることを発見できるのです。欲求の問題はそれを変容することによって解決します。私たちが欠乏に衝き動かされている限り、すべての欲求は底なしの穴を満たそうとする厄介な愛着になります。欠乏なしの、私たちの無であること(no-thing-ness)の静穏、どんな固定した性質ももたない、それは、どんなものにでもなれる自由を授けるのです。

注)インドラ網:インドラ(帝釈天)の宮殿にかかる網のこと。網の結び目にそれぞれに宝珠がついていて、その一つひとつが他の一切の宝珠を映し出すという深遠な世界を示す言葉。

プロジェクトを通して解決しようとする、そして(アートマンに至るまでは)決して成功しないプロジェクトとは、まさにウィルバーのいう「アートマン・プロジェクト(the Atman Project)」のことであると思われます。

そして、恐れて抑圧するのではなくその無根拠性を「受け入れ」、「明け渡す」ことでインドラ網に根ざしていることに気づくことができるといいます。

インドラ網とはCook-Greuterのいうところの、区別のない現象論的連続体(undifferentiated phenomenological continuum)でしょう。

そうか!シナプスが繋がりました。ウィルバーのホロンの付加原則2と3の「すべてのホロンはコスモスに対してIOU(借用書)を発行する。」「すべてのIOUは『空性』において清算(=救済)される。」の意味はこのことです!

松永太郎さんのブログのなかに「アインシュタインは、次のように書いている。」としてこのような文を見つけました。

http://taromatsunaga.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-06c3.html

「自分の感情や経験、思考などを、切り離された独自のもののように感じる。これは、視覚的な幻想である。この視覚的な幻想が、私たちを閉じ込める監獄になっている。」


う〜ん、そうだったのですね。私たちのこの感覚、あるときには何かの成功で、あるときには目標の達成で、あるときには人との関係で一時的に満たされることはあっても、絶えまなくある「不足しているという感じ」、「欠乏の感覚」のもとは、ここにあったのでした。

これが分かった以上、もはや本丸を攻めないで、代用品でごまかすことなどできません。


最後はタイプ8らしい(エニアグラム)〆の言葉になってしまいました。(笑)