ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

不測に立ちて無有に遊ぶ

さまざまな物事が不確定であり、〆切に間に合わせることだけを目指して、不確実性の藪の中を歩いているように感じるこの頃ですが、どうも違う、違うと囁く声があることも意識していました。そして今朝、頭に浮かんだのは以前からどこかで書きたいと思っていた玄侑宗久さんの著書『荘子と遊ぶ』に出てくる言葉「不測に立ちて無有に遊ぶ」です。

その本のP155にこう書かれています。

むうううう。これ明王の在り方の話ではあるが、まさに未来を憂えない生活の指針ではないか。道徳を掲げ、一定の目標に現実を引き寄せようと藻掻くのではなく、とりあえずどうしようもない現実を容認し、それに順応しつつ、…不測に立ちて無有に遊ぶ。



最初に彼の著書にこの言葉を見たのは、「しあわせる力」という新書でした。今その本が手元になくて定かではないのですが、たしか前方に未来、後方には過去がひろがる海で波乗りしているイラストが描かれていたように記憶しています。

起こることや他者の意見などは不確定です。波をコントロールできないようにこれらを自分の思うようにコントロールすることはできません。できるのは上手に波に乗ることだけです。

「分からない不安を有として懼れ」という表現が出てくることから、そのような「有など無いのだ」という看破とともに自在に遊ぶことが「無有に遊ぶ」の意味ではないでしょうか。

「前後際断し今に没頭せよ」という教えが禅にはあるそうですが、平たく言うと、過去のことを後悔し未来のことを憂えて、いまこの瞬間をないがしろにするんじゃないよということです。「不測に立ちて無有に遊ぶ」とはこの「前後際断し今に没頭せよ」に通ずるものがあると玄侑宗久さんは書いています。

そして無有に遊べるために大切なことは、時間の無い「いま」とともにあるということです。これはTolleのいうPower of Nowです。

過去、現在、未来という時間の流れから過去と未来を取り去り、薄っぺらい現在に集中するという意味ではなく、時間の流れに入らない「いまここ」のスペースを自分の内部に感覚としてしっかり確立しGroundingして「遊ぶ」のです。

波乗りが上手な人は、このような錨を下しているからこそ、うまく波に乗れるのでしょう。