ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

値段はリアリティを矮小化する

値段をつける、あるいは値段がついているとはどういうことかを考えてみたいと思います。

商品には値段がついています。スーパーの店頭にはバナナが4本で198円という値段がついて売られています。私の朝食は主にバナナ(他の果物の時もありますが)なのでこれをよく買ってきます。そのたびに思うのは、輸送コストや中間マージンなどを考えると、一体いくらで現地の人はこれを出荷しているのだろう?ということです。

大変距離の遠い(フードマイルが長いなどといいますが)途上国などから輸入される多くの食べ物(木材や他の産品もそうですが)が安いということは、おかしなことです。

経済学的には物価が相対的に安く人件費の低い国で生産されているから、このようなことが可能となるのですが、もしこれが熱帯雨林(原生林)の焼き畑農業で作られているなら、何千年もかけて自然がつくってきた原生林を永久に失うという代償のもとにその経済交換は成り立っています(注)。

しかしその代償は価格に適正に織り込まれていないのです。本来は輸送エネルギーをたくさん使用してCO2を大量に排出することからくる気候変動によって将来発生する損失についても算入されていなければなりません。しかしそのようなコストが織り込まれていないからこそ、そのような私たち先進国にとって都合のよい交換が成り立っているのです。
 
このことは電力料金についても同じことがいえます。

原子力発電が経済的に成り立っているのは、核廃棄物の処理コスト(完全に安全なものにする)やそれが今回のように外部に流出した場合の莫大な損失のコスト、将来の世代が追うことになるリスクなどが適切に価格に織り込まれていないことによって成り立っているのです。

最近はかなり価格が上がってきていますが、それでも化石燃料がエネルギーの主役として成り立つのは、何億年もかけて地球が地下で作り上げたものをわずか数十年で使っているからです。その復元のためのコストは原油価格に織り込まれていません。

つまり自然という資本の減耗コストが反映されていないからこそ成り立つのです。エネルギーの価格や価格と食糧の間にはこのような矛盾が存在していることは、ちょっと環境問題を勉強した人なら誰でも知っていることです。

ここでもう一度はじめの話に戻りたいと思います。

私たちはこのような価格に内在する問題にあまり気づかずに生活することに慣れています。つまりこのことは値段を通してモノをみる習慣が無意識についてしまっているということです。

しかし値段とはこのように不完全なものなのです。値段はそのモノの価値を表わしているように思われがちです。宝石など高い鑑識眼がないと評価できないモノは値段の高い方が価値があると考えたりします。

同じモノ同じサービスなら値段の安い方にしようと考えたりします。つまり無意識に値段はその物の本質を表わしているかのような、あるいはその尺度であるような使い方をしているのです。

これはとても便利です。お金の機能は3つあって価値尺度機能、価値保蔵機能、交換機能などと言われますが、このようにモノの値段が価値尺度としての役割を果たすことで、大変効率の良い財・サービスの交換が可能となっているのです。しかしそうした習慣があたりまえのようになることで、そのものの価値全体を値段が表わしていると錯覚してしまうのです。

このことをあらためて考えるきっかけになったのは、Eckhart Tolleの次の文章(Stillness Speaks P81)です。

Thought reduces nature to a commodity to be used in the pursuit of profit or knowledge or some other utilitarian purpose. The ancient forest becomes timber, the bird a research project, the mountain something to be mined or conquered.

特にPriceのことが書かれているわけではありませんが、commodityとしてモノを見た時に、どのようなフィルターどのようなレンズを通して見るかというと、そのモノの効用(特定の目的から見た)、そしてそれを測る手段としての値段を通して見てしまう傾向があると気づきました。

言葉はそれ自体リアリティを湾曲したり、矮小化したりする性質を持つものですが、「値段」は言葉がもたらす概念とセットになることでフィルターをさらに厚く強固にしてしまい、ありのままの姿から遠ざけていくのではないでしょうか。

エネルギーのコストに自然の減耗コストや将来世代の損失リスクがきちんと含まれていないという市場原理の限界を見抜くことがグリーンの認識であるなら、「値段それ自体がリアリティを矮小化する」というのは、グリーンを超える認識なのかもしれません。


(注)もちろん持続可能な焼き畑農業があることは承知しています。