ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

五蘊その3「想」―Perception

記憶によって条件づけられる知覚

「色(しき)受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)識(しき)」という五蘊について順に見ております。今回は三番目の「想」です。

まずは、Ayya Khemaによる解説を見てみましょう。(以下、引用拙訳)

次に、私たちを構成しているのは知覚だ。知覚は物事がどんなものであるかを私たちに伝えてくれる。目が何かを見たとき、識別できるのは形や色である。目によって、これが四角いとか前は白く後ろは黒いと知ることができる。しかしあなたはそのようなものを以前に数多く見てきたので、これが置き時計だと分かる。マインドは「置時計だ」と言い、その後もこう続けるかもしれない。「それってローカルじゃないの。彼女がそれをおそらくオーストラリアで買ってきたのよ。向こうではいくらぐらいの値段がするのかしら?」それはマインドのお喋りだ。しかしもし3歳の子がここに入ってきて、これを見たら、それとボール遊びをしようとするかもしれない。彼はそれが置時計だと知らないのだ。これはボールと親しんでいるのでそれをボールと考えるかもしれない。あるいは、それは組み立てブロックかもしれないと考えて、それで家を作ろうとするかもしれない。それは彼が慣れ親しんでいるものなのだ。それが彼のそのものに対する知覚である。

目は形と色だけを見るが、知覚は記憶の条件づけをもつ。置時計をもったことのない人は「私もそんなのが欲しい」と言うかもしれない。あるいはより良い置時計をもっている人は「私のはもっと価値があるわよ」と考えるかもしれない。エゴは即座に生起し、その欲望とあるいは優越感を主張する。実際に私たちの見たものは、後ろが黒で前が白色の四角い小さな箱型のものにすぎない。エゴの迷妄と条件づけによって、私たちがそうだと信じる思考プロセスを知覚が作り出すのだ。それを信じない理由はない。私たちはそれを分析したことなどないのだから。それを信じることによって私たちはエゴの幻想を永続させている。私たちはいつも考えている。なぜならエゴの幻想を支持せねばならないからだ。エゴはとても脆いので支持されないと剥がれおちるのだ。私たちは身体の要求に固執し続け、エゴの幻想を支持するfeelingになるのである。もし私たちがfeelingを眺め、「それは、ただのfeelingだ」というならば、そのときエゴの暗示は解けるであろう。

エゴはいつも支持を必要とする。なぜならそれはリアルでないからだ。私たちは「これは家だ。これは大きな家だ。これは古い家だ」と言い続ける必要はない。それは明らかだ。この家は存在する。しかしエゴは存在しない、それゆえ繰り返し確認することを求める。この(知覚に対する)支持は私たちの思考プロセスからやって来るのであり、(その知覚は正しいと)認められ、愛されることで、そして感覚と結びつき、それらの知覚を通じることによって、さらなる支援を得るのである。(引用ここまで)



「知覚は記憶の条件づけをもつ」(perception has the conditioning of memory.)というところに赤で二重線を引きました。今回のブログの冒頭に敢えて「記憶によって条件づけられる知覚」という見出しを振ったのもこのセンテンスが気に入ったからです。

そして以下は、Thich Nhat Hanhからの解説です。(以下引用)

私たちの内には知覚の川がある。知覚が生起し、しばらく留まり、そして止む。知覚の集合には感知、名付け、概念化、並びに知覚する者、知覚されるものが内包される。私たちが知覚する時、それをしばしば歪めてしまい、そのことが多くの苦痛に満ちたfeelingをもたらす。私たちの知覚はしばしば間違っており、そして私たちは苦しむ。私たちの知覚を過信しないで、深く見通すことが役立つ。過信する時、私たちは苦しむ。「確かか?」はたいへん良い問いかけだ。こう訊かれたのなら、それはもう一度見直して、私たちの知覚が間違っていないかどうかを知る良いチャンスなのだ。知覚する者と知覚されるものは分割することができない。知覚する者が誤って知覚する時、知覚される物事もまた間違ってしまうのである。

ある男が流れを上にボートを漕いでいた時、突然、もうひとつのボートが彼の方にやって来るのを見た。彼は叫んだ「気をつけろ!気をつけろ!」。しかし彼のボートは彼へと真っすぐに波をかき分け進んできて、彼のボートを沈めそうになった。その男は怒り、叫び始めた。しかし近づいてよく見るとそのボートには誰も乗っていなかった。ボートは流れを下へ漂流していたのだった。彼は大声で笑った。私たちの知覚が正しいとき、私たちは気分がいい。しかし知覚が正しくないとき、そうした知覚は多くの不愉快な気分の原因となる。私たちは物事を深く見通さなくてはならない。そうすれば、苦しみに、そして困難なfeelingに導かれることはないだろう。知覚は私たちの幸福にとってとても大切なものなのだ。

知覚は、私たちの中に存在する多くの苦悩によって条件づけられる。それは無知、渇望、嫌悪、怒り、嫉妬、恐れ、習慣的なエネルギーなどだ。すべては無常であり、相互依存しているという本質に対しての洞察を欠いた基準で、現象を知覚する。マインドフルネスを実践し、集中し、深く見通すことで、知覚の誤りを発見し、恐れや執着から自由になることができる、すべての苦しみは誤った知覚から生まれる。それを理解すること(それは瞑想の成果であるが)が誤った知覚を解き、私たちを解放する。私たちは常に敏でいるべきで、知覚の中に逃げ場を求めてはならない。ダイヤモンド・スートラ(金剛般若経)は思い出させてくれる。「知覚のあるところ、欺瞞あり」。私たちは、知覚を、真のビジョン真の知識である智慧(prajna:般若)と、置き換えることができるのだ。(引用ここまで)



バイロン・ケイティのワークを思い出しました。有名な「4つの質問」の最初は「それは本当ですか?」です。これは今回の智恵に照らし合わせるなら、「過去の記憶に条件づけられたその知覚は正しいでしょうか?」となります。まるで認知療法ですね。仏教認知療法的側面がここにあるといえます。

認知療法の自動思考 - ウィルバー哲学に思う

「私たちはいつも敏でいるべき」は変に聞こえるかもしれませんが、alertnessは私にとってキーワードであり、We have to be alert always…を訳し敢えてこういう表現をさせてもらいました。


「すべては無常であり、相互依存しているという本質に対しての洞察を欠いた基準で、現象を知覚する」
We perceive phenomena on the basis of our lack of insight into the nature of impermanence and interbeing.

これがまさしく、「遍満する苦しみ」(Pervasive Suffering)の意味です。ミンゲールも「苦」を「苦痛に基づく苦しみ(Suffering of suffering)」「変化に基づく苦しみ(Suffering of change)」そしてこれら二つの苦しみの元になる「遍満する苦しみ」と分類していますが、この「遍満する苦しみ」は一言で表現するのがとても難しいなと感じていました。

このことについては五蘊についての記事が終われば書こうと思っていますが、端的にいうと、まさにこの二行でよいのだと思われます。

そのようなベースで現象を知覚することの苦しみが、Pervasive Sufferingなのです。