ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

五蘊その5「識」―Consciousness

五蘊の無常、無我、相互依存性を看破する

やっと五蘊の最終回です。今回は五蘊の5番目の「識」(Consciousness)とは何かということと、五蘊全体のまとめについてティクナットハンの解説を見てみたいと思います。
以下“The heart of the Buddha’s Teaching”p180~p182からの引用です。

(以下引用拙訳、まずは「識」について)
五蘊の五番目は意識。ここでいう意識は「保蔵する意識(store consciousness:阿頼耶識)」だ。それは私たちすべてのベースであり、全部の心的構成物(メンタル・フォーメイション)の基礎である。心的構成物が顕在化していないとき、それらは種子の形でstore consciousnessの中に存在している。喜びの種、平安の種、理解の種、慈悲の種、物忘れの種、嫉妬の種、怖れの種、失望の種などなど。ちょうど心的構成物の分類が51あるように、私たちの意識に深く埋め込められた51種類の種子がある。私たちがそれらのひとつに水をやったり、ほかの誰かから水をやられることを許したりしたとき、その種は顕在化して心的構成物となる。私たちと他者がどの種子に水をやるのかに関して十分注意しなくてはならない。もし私たちが自分の中にあるネガティブな種子に水をやると、私たちは圧倒されるだろう。五蘊の五番目の意識は、それ以外の五蘊全部を含み、それらの存在のベースになっている。
 それと同時に意識には、集合的なものと個人的なものがある。集合的な意識は個人的な意識からつくられ、個人的な意識は集合的な意識からつくられる。マインドフルに(モノやエネルギーを)使い(consuming)、マインドフルに感覚を見守り、深く見ることの実践を通じて私たちの意識はその根本で変容されうる。実践は私たちの意識の個人的側面と集合的側面の両方の変容を目的とする。そのような変容を生むためには仲間(Sangha)と共に実践することが不可欠だ。私たちの中にある苦悩が変容されるとき、私たちの意識は智慧となり、隅々を照らし、個人と社会全体の両方を解放に導く道を見せてくれるだろう。

(そして以下は五蘊の「まとめ」となる文章です)
これらの五蘊は相互に関係して存在している。(These Five Aggregates inter-are. )あなたが痛みのfeelingをもつ時、このfeelingをもたらしたものは何なのかを知るために、あなたの身体を、あなたの知覚を、あなたの心的構成物を、あなたの意識を見通しなさい。もし腹痛なら、あなたの痛みの感覚は五蘊の一番目に由来している。痛みの感覚はまた心的構成物に、あるいは知覚にも由来している。例えば、実際にはある人があなたを愛しているのに、あなたはその人から嫌われていると考えたのかもしれない。

あなた自身の5つの川を深く見通しなさい。そしてどのようにそれぞれの川が他の4つを含んでいるかを理解しなさい。形態の川を見なさい。はじめは、形態はフィジカルなだけでメンタルなものではないと考えるだろう。しかしあなたの身体の全ての細胞があなた自身の様相すべてを含んでいる。今やあなたの身体のひとつの細胞を取って、あなたの身体全部を複製することが可能だ。それはクローンと呼ばれる。ひとつがすべてを包含しているのだ。あなたの身体のひとつの細胞はあなたの身体全部を包含し、それはまた全部のfeeling、知覚、心的構成物、そして意識を包含する。そしてあなたのものだけではなく、あなたの両親のも、祖先のそれらも。

五蘊のそれぞれは他の全部の五蘊を含んでいる。各々のfeelingは全部の知覚を、心的構成物を、意識を包含している。ひとつのfeelingを見通すことで、あなたはすべてのものを発見できる。相互に照らし合う光を見つめなさい。(Look in the light of interbeing,)そうすれば、全てはひとつの中にあり、ひとつ(「一なるもの」)は全ての中にあることを理解するだろう。Feelingの外で存在する形、あるいは形の外で存在するfeelingを考えてはいけない。

Wheel Sutraの転換点で、ブッダは「五蘊は、掴んで離さぬ時(when grasped at)、苦しみとなる」といった。彼は五蘊それ自体が苦しみだといったのではない。Ratnakuta Sutraの中に役立つイメージがある。男が土の塊を犬に投げた。犬は土くれを見て、激しく吠えた。犬はその責任が男であって土くれにはない、ことを理解できないのだ。

そのスートラは続けていう。同じように、通常の二元論にとらわれている人は五蘊が彼の苦しみの原因であると考えるが、実際には彼の苦しみの根本は、五蘊の本質である無常(impermanent)、無我(nonself)、相互依存性(interdependent)を理解することの欠如によるものなのだ。

私たちを苦しめるのは五蘊ではなく、五蘊との関係(the way we relate to them)にある。私たちが無常、無我、すべての相互依存性を観察するなら、人生への嫌悪はもはや感じることはない。事実、これを知ることは人生すべての尊さを理解するのに役立つだろう。

私たちが正しく理解しない時、私たちは物事に執着し、それらによって囚われる。Ratnakuta Sutraでは、「蘊〔スカンダ〕」と「しがみつく蘊(aggregate of clinging)〔アップダンタ・スカンダ〕」という言葉が使われる。スカンダは生命に生じる五蘊だ。アップダンタ・スカンダは同じ五蘊だが、私たちが掴んで離さない対象だ。私たちの苦しみの根本は五蘊にあるのではなく私たちが掴んで離さないことにある。苦しみの根本を間違って理解することによって、執着を処理する代わりに、6つの感覚の対象を怖れ、五蘊を嫌悪する人々がいる。ブッダ(「目覚めた人」)とは、平安、喜び、自由に生きる人であり、何ものかを怖れ、執着する人ではないのだ。

私たちが息を吸い、吐いて、内に五蘊を調和させる時、これは本物の実践となる。しかし実践することは私たち自身の内に五蘊を閉じ込めることではない。私たちはまた内にある五蘊が、社会の中に自然の中に私たちの暮らす人々の中にルーツがあるのだということにも気づく。
あなたが、自分自身と世界のワンネスを知ることができるまで、自分自身の中の五蘊の機構(assembly)を瞑想しなさい。観音菩薩五蘊のリアリティを深く見通したとき、彼は自己の空性を見、苦しみから解放された。(「照見五蘊皆空 度一切苦厄」)
もし私たちが努めて五蘊を黙想するなら、私たちもまた苦しみから解放される。もし五蘊がそれらの源に返るなら、自己はもはや存在しない。全ての中にある「一なるもの」(the one in the all)を知ることは、誤った自己像に対する執着、それ自体で存在し変わり得ぬもののようにみえる自己への信念を、看破することだ。この誤った見方を看破することこそ、あらゆる苦しみから解放されることなのである。(引用ここまで)


いかがでしたでしょうか?

最初は今回のブログに「どの種子に水をやっているかを自覚する」というタイトルを振ろうかと考えていました。

「私たちと他者がどの種子に水をやるのかに関して十分注意しなくてはならない」と書かれていますが「識」に格納されている「どの種子に」いま自分は水をやろうとしているのか?という「自覚」、あるいは今起こっていることは他者がその水をネガティブな種子にやろうとしていることなのではないか?という「気づき」が大切だということです。

1月3日に「習慣的な脳神経回路を書き換える」とうタイトルのブログを書きました。

習慣的な脳神経回路を書き換える - ウィルバー哲学に思う

「どの種子に水をやっているかを自覚する」とは、自分がとりがちである習慣的な思考や固定観念に気づくということですが、脳神経的な視点(インテグラル理論AQAL「右上象限」)からすると、習慣化し増強されたシナプスをはじめとするネットワークを再構築することです。

このことは次回、ミンゲールの”Joyful Wisdom”からの引用を紹介して、もう少し詳しく解説してみたいと思います。


そして五蘊のまとめの方では、苦しみの元は「五蘊そのもの」にあるのではなく「五蘊との関係の取り方にあるのだ」という主張が、何といってもすばらしいです。斬新だと感じました。

もともと五蘊のことを整理しようと思いはじめたのは、「遍満する苦しみ」(Pervasive Suffering)の意味が今ひとつ分からなかったからです。「分別知をもったことによる苦しみか?」などなどと考えておりましたが、どうしても五蘊をもう少し掘り下げて理解せねば、と思い至り5回にわたって書き記したのでした。

そして五蘊とはthe all in the one and the one in the allというインドラ網の性質そのものであり、「照見五蘊皆空」とは、そうした無常(impermanent)、無我(nonself)、相互依存性(interdependent)という五蘊の本質を見抜くことに他ならないと書かれています。

脳神経的な視点からしますと五蘊は人類が進化の過程で備えた特長であることをミンゲールは示唆しています。(次回、取り上げます)

しかし関係の取り方を間違えると、様々な苦しみ、そして悲劇をもたらすのです。

それはDavid Loyのいうように、お金(経済)への強迫観念であり、技術進歩への過度な信奉です。

その意味で私たちは進化の分岐点にいるようです。進化の過程で備えた「特長」の負の側面に気づかず、それにのみ込まれ自滅するのか、五蘊の空性を見据え、その「特徴」と上手な関係性を構築できるのか。

まさに今、そして日本は、試されているのでしょう。