ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

フローとマインドフルネス

このブログを読んでいただいている方からフロー状態とマインドフルネスな状態の違いについてコメント欄に質問がありました。ありがとうございます。興味深いテーマと思われましたので、以下に私の考えを書かせていただきます。

フローとマインドフルネスの違いについてということですが、フローはひとつの状態でありますが、マインドフルネスは状態というよりは「立ち位置」ではないかと認識しています。今この瞬間を尊重した観察者の自己(=目撃者)としての立ち位置です。したがって、マインドフルネスという立ち位置を取ることでフローな状態になる、ゾーンに入るということも可能でしょうし、マインドフルネスでありながらもフローな状態にない(たいていはそうだと思います)こともあります。自己収縮、不安、怖れなどの感情を観察しながらそれと共にあるという状態なら、フローの状態ではないがマインドフルネスであるといえると思います。

>セルフ(いわゆる自我、わたし)不在は共通だが、フロー状態のほうは観察者も不在ということなのか?
最近読んだ羽矢辰夫さんの本の中で「未我→自我→超我」という表現があり、うまい!と思いました。マインドフルネスは思考や感情という自我を対象として見ますので「超我」といえます。それに対しフローは「没我」と表現できるかもしれません。自我に目覚める前の幼児は「未我」です。いずれも非―自我ですが、あり方が異なります。

フロー状態は観察者が不在かどうかという点については、私は観察者の視点を維持したフロー状態と没入したフロー状態があるように思います。イチローのWBCの決勝打の瞬間をフロー状態というなら、そのときに観察者の視点を維持していたことが彼のことばから伺えます。これはフェーミ博士のいうディフューズ/イマースト(拡張/没入)というアテンションスタイルと、ディフューズ/オブジェクティブ(拡張/目撃)というスタイルとの違いということもできそうです。オープンなフォーカスで目撃と没入を自由に行き来できるのが本当のフローなのかも知れません。

またフロー状態は、フェーミ博士やEric Thompsonによると脳波的にはアルファ波であるといいます。粗大―微細―元因という身体の状態レベルで考えるとフロー状態は微細な状態と関係が深いとわたし自身は感じています。マインドフルネスでは粗大から元因へのベクトルが働くものの、粗大に気づくマインドフルネスもあれば元因なレベルに気づくという深いマインドフルネスもあるような気がします。

フローは結果としてもたらされる一時的な状態であり「ありがたい贈り物」ですが、マインドフルネスは結果としての状態ではなく、立ち位置であり、状態に働きかけるひとつの意志であるように最近は感じています。