ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

コントロールを手放し浮力を感じて生きる

ある新しいことをやろうと決意したのですが、どのように進めていいか分からないでいました。

今もまだ分からないのですが。

といいますか、もともと現時点からは、やや飛躍しているので、その道筋がよく見えないでいます。

ですから当然といえば当然なのですが、当然とは思いながらもどうすればいいかな?と思案していました。

そして、ガンガジの著書のある文章がきっかけで、自分の嵌っている、あるいは嵌りがちな罠に気づきました。

私たちはあることをやろうとした時に、ビジョンを掲げて、そのビジョンを実現するための戦略を練り、目標を立て、その目標を達成するための計画を策定し、その計画を実行するアクションをストーリー化します。

組織の経営においても、個人の人生においても、そのようなやり方がオーソドックスで基本的に異論はないはずです。

しかし本当にそうでしょうか?

組織の経営において、経営コンサルタントである自分は、軽々しくこれを否定できませんが、少なくとも個人の人生においては、違う、と時々に感じてきました。

そのようなオーソドックスなやり方で物事が進んでいくのではない、という思いです。

特に不確実な要素の多いことに関してそうだと思います。

では物事はどのように進んでいくのか?

ガンガジの著書の「コントロール願望を手放す」という節のこの部分に目が止まりました。

(以下引用)
精神的成熟とは、自分は人生をコントロールできない、ということに気づいているかどうかにかかっています。

それはもちろん、天地がひっくりかえるような認識です。なぜなら私たちは物心ついたときから、自分が状況をコントロールできると信じ、注意とエネルギーの多くを、コントロールするために注ぎ込んできたのですから。

コントロールしたいという願望、自分がコントロールしているという幻想、コントロールできるのではないかという期待、それはみな、自分はいつ、どんな結果が出るか分かっているという誇大妄想的な思い込みの上に成り立っています。

当然、あなたにある程度のコントロールが可能なものはたくさんありますが、完全にコントロールできるものは一つもありません。

あなたはあなたの身体のある機能をある程度はコントロールできますし、状況、思考、感情、地位や生き残りについても然りです。けれども、完全にコントロールすることは決してできないのです。
・・・

コントロールを手放すというのは、もっと深い意味でリラックスすることです。海に浮かぶ時のようなものです。自分が何に捕まっているのかに気づき、そこから手を離して海に身を任せることがあなたにはできます。

身体を緊張させることも何かにしがみつくことも不要であることに気づき、それからリラックスして、支えられるに任せるのです。

それと同じように、ある物語にしがみついているために必要な心理的、感情的エネルギーに気づき、それをただ全部手放せばよいのです。
・・・
コントロールが可能だと思うことからは多くの不幸が生まれ、サポートを提供することから人は大いなる喜びを得るからです。
・・・
コントロールできるという無益な空想は、苦悩の原因となります。苦悩は、あなたが提供できるはずのサポートからあなたの注意とエネルギーを逸らします。

コントロールしたいと思うと、あなたのエネルギーと注意は常にある望ましい結果にむけられ、終始・・・チェックに余念がなくなります。あなたのエネルギーと注意は、・・・結果に注がれます。
・・・
コントロールしたいという願望を手放すことであなたは自分が充ち足りるのを感じ、そしてこの充足感によってサポートを提供できるのです。
(引用ここまで)

過去にもこのブログで「状況はコントロールしようとすることの弊害」について何度か書いてきました。

それはとりもなおさず私自身に、コントロールしたいという無意識の願望、コントロールしようとする自覚を欠いた衝動があるからです。

インテグラル理論的にいうと、取りがちなオレンジの方略があだとなるのです。

今回もまたまた気づかされました。

しかもコントロールしようとすることが、本来やりたかったはずである「サポート」の質を落としてしまうのです。まさに本末転倒ですね。

あることをやろうとしてそのストーリーを想定していました。しかしいつの間にか、その物語にしがみつこうとしていたのです。

そうではなくむしろ私に必要なことは、「物語にしがみつくのを止め、コントロールを手放す」ことでした。

そして今回もっとも注目したのが、「海に浮かぶ時のようなものです。・・・支えられるに任せるのです。」というところです。

2010年7月20日のブログにも書いたOceanの話を思い出しました。ここにもう一度再掲します。(以下再掲)

浄土真宗入門書『Ocean』には以下のような、めざめの事例が描かれているそうです。

今、1人の船乗りが海に放り出され、泳いでいることを想定する。
大海の真っ只中をその人はどこかの島へたどり着くべく必死に泳ぐが、その方向感覚も無く、力も尽きようとして絶望の中にいる。
その時、海の深淵から「力を抜きなさい。力むのをやめなさい。そのままでいいのです。南無阿弥陀仏」と声が聞こえてきた。
その人は、自分の力でむやみに泳ぐことを止め、仰向けになると力まなくても海が自分を支えてくれることを知って安心した。
「本当は、初めからずっと大丈夫だった」のだが、自分の力に頼りすぎて自分を見失っていたことにめざめた。
それから、空の星の位置から自分の位置を確かめ、方向を定めて、風向きを計算しながら島のある方向に気を持ち直して(大きく意識を変えて)泳いでいったと・・・。
(再掲ここまで)

支えられるに任せる・・・

こうしたことは頭でわかっただけではだめで、感覚として習得すべきものです。

そしてその感覚として習得することができたときに、「コントロールを手放すことで自分が充ち足りる」のを感じることができるはずです。

ということでその支えられる感覚を「浮力」と表現したいと思います(そのままですが)。

ですので、久しぶりの今回のブログのタイトルは

コントロールを手放し、浮力を感じて生きる

です。