ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

状態ではない静寂としてあること

ガンガジはその師であるプーンジャ(ラマナ・マハリシの弟子)から「止める」という教えを受けたといいます。

ガンガジの次の文章が大変印象的だったので紹介させていただきます。

(以下、the Diamond in your Pocketから引用)

私はよく、「どうすればこの『止めた(stopped)』状態に留まることができますか?」と訊かれます。でも「止める」というのはある状態を指しているのではありません。沈黙(silence)、静寂(stillness)も然りです。これは非常に重要な違いです。あなたには頭の中を比較的落ち着いた状態にできますし、身体をリラックスした状態にすることもできます。けれども私がここで言っている静寂とは、本質的に決して動かないものなのです。それはいつでも「止まって」います。すべての理性活動、行動は、この決して動かない静けさの中に現れ、存在し、そして再び消えていきます。
 すべての状態には、始まりがあり、経過があり、そして終わりがあります。それは、幸福だったり悲しかったり、非日常的だったり日常的だったり、高揚していたり沈滞していたりします。けれども、状態とは無関係の存在、それがすなわちじっとして動かない静寂です。意識とはすなわち静寂です(Awareness is stillness)。そしてあなたはすでに、この静寂なのです。
 あなたの理性は、理性の活動について、またはどうすれば活動を止められるかについて、忙しく考えているかもしれません。でもそれはみな、どんな状態でもない存在、つまり静寂そのものの中で起きています。
 決して変化しない静寂、それが、意識的に繰り返すことのできるものであるとか、あなたにうまくできなかったりするものであるとか、そういった考えをあなたの頭の中から追い出すことができれば、静止したもの、存在そのものが、つまりあなた自身であるということがついにあなたにはわかるはずです。
 静止「したい」という衝動は理性の活動から来るものであり、理性の活動は、静止の中で起きているのだということに気づいてください。この静けさは、死んでいるのでも空っぽなのでもありません。それは意識(consciousness)そのものであり、気づき(awareness)そのものなのです。そしてあなたがそのawarenessです。「静止しなくてはいけない、静止していよう、どうして自分は静止することができないのだろう?」という思考、それを観察し、経験しているのは、この静寂そのものです。(引用ここまで)


この状態ではないstillnessはラマナのいう「私−私(I−I)」です。それは不動のWitness(目撃者)です。それはAwarenessそのものだといいます。そしてそれはその中ですべてのものが生起する大いなる「開け」である(Openness)といえるでしょう。

ふと小椋佳の名曲「スタンドスティル」が意識の中をよぎりました。

♪トロピカルフィッシュの 泡音の 絶え間ない、繰り返しの中で生き残る時間

壁にかけたままの 一枚の 絵に浮かぶ過去だけが 見えてくる時間♪