ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

無所住心で囚われを捨てる

NHKスペシャルの「キラーストレス」とEテレの「マインドフルネス」が放送された直後に出版された熊野宏昭さんの「実践マインドフルネス」に、脱フュージョンの次のステップとして、「場としての自己=注意を無数に分散する」という実践が紹介されています。

自分が極限まで小さくなると自他の分離がなくなり、距離ゼロの俯瞰が実現する。
そのための方法が注意の分割。

と書かれており

注意の分割によって、注意資源が消費され、思考から離れた現実が知覚される。(ヘイズ&スミス)

ということばが引用されています。

青空というある意味位置をもった視点から見ていた段階から、非―位置の視点へとシフトし、見ている対象(客体)と見ている主体が合一する段階であるといえるでしょう。

そうか、フェーミ博士のいう、「ディフューズ/オブジェクティブ」から「ディフューズ/イマースト」へのシフトなのだ!とひらめきました。これについては次回書きます。

そして、さらに森田療法に同じような「注意の分割」を見つけました。

それは、禅でいう「無所住心(むしょじゅうしん)」です。

森田正馬著『神経質の本態と療法』P98から引用します。

私たちの健康な注意作用について考えると、禅に「まさに無所住にして、その心を生ずべし」という言葉がある。無所住心とは、私たちの注意がある一点に固着、集注することなく、しかも全精神が常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちははじめて事に触れ、物に接して、臨機応変、すぐに最も適切な行動で、これに対応することができる。たとえば電車に乗って、つり革を持たず、読書しながら、電車の動揺に倒れず、乗換駅を忘れず、スリにかからず、その時々の変化に応ずることのできるのは、この無所住心であるときにはじめてできることである。この際、もしその一条件だけに注意を固着していたとすれば、そこに必ず何かの失策を起こすようになるのである。なお電車の乗るとき、この無所住心の状態は、どうしてできるかといえば、身体の全重量を一方の足にて支え、他方の足は浮き足にして、ツマ先立ちにし、体操の時の「休め」の姿勢をとり、そのまま平気で何の心構えもなく、いわゆる「捨身」の状態でいさえすればよい。この身体の姿勢と心の態度とは、心身の不安定の状況にあるものである。したがってそのために、精神は全般に緊張して外界の変化に応じ、注意が自由自在に活動することができる状態である。
およそ神経質の症状は、注意がその方向にのみ執着することによって起こるものであるから、その療法は、患者の精神の自然発動をうながし、その活動を広く外界に向かわせ、限局性の注意失調を去って、けっきょくこれを無所住心の境地に導くことにあるのである。これが私の神経質に対する特殊療法の発足点である。(引用ここまで)

注意が一点に固着しがちな(すなわち囚われている)のが、神経質(最近は使わない言葉になっていますが)の症状をもたらす。逆に健全な注意の用い方とは、注意があまねくゆきわたっている状態であるといいます。

電車に乗るときの例えは分かりやすいですね。

身体の全重量を一方の足にて支え、他方の足は浮き足にして、ツマ先立ちにし、体操の時の「休め」の姿勢をとり、そのまま平気で何の心構えもなく、いわゆる「捨身」の状態でいさえすればよい、と書かれています。

そうすれば、つり革を持たずとも揺れて倒れず、読書し、駅を忘れず、スリにかからず、そういう状態であるなら、臨機応変、適切に対応できるといいます。

これは極めれば、まさに柳生新陰流でいう無形の位(むぎょうのくらい)ですね。

「悪い無限」を空なる心の自由へと反転する、それは「無形の位」 - ウィルバー哲学に思う

私たち日本人はテレビの時代劇でよく殺陣(たて)のシーンを見てきました。

斬り合いに入る前、大勢の敵がいてどこから出てくるかわからない。そんな敵の気配をよもうと、心に静けさを抱き、耳を澄まし風の流れを感じ取る、あの感覚。それが無所住心なのではないでしょうか。

 

無所住心で囚われを捨てる

 

やはり日本の「道」には、たいせつな境地への道が含まれているのだと改めて思いました。