昨日は、娘の結婚式だった。素晴らしかった。感無量とはこのことを言うのだろう。
そして昨夜、2年前に何度も見たあの名作「素晴らしき哉、人生」が再放送されていたのでそのエンディング(自殺しようとしたジョージが天使に「彼が存在しなかった世界」を見せられたところからからラストまで)をまた見た。
2年前に感じたインスピレーションに加えて、今回は「贈りもの」ということが記憶に刻まれた。
贈りものという習慣には、人類進化の長くて深い意味が含蓄されている。
それは、「100分de名著」の今月のテーマ「野生の思考」が語る多くのなかの一つだ。
中沢新一は、(お金での)「交換」は、人と人を分離し、「贈与(贈りもの)」は人と人を結びつける、といっている。送る者と贈られる者の「絆」を強めるのが贈りものなのだ。
そして贈りものは受け取った者に返礼の気持ちを起こさせるという。これがお返しだ。
しかし誰にお返ししていいか分からないような「happyな出来事」という「贈りもの」もある。
そのとき私たちは「おかげさまで」などという。ジョンレノンは「お陰様:okagesama」という言葉を、日本語の中で一番美しいといって、もっとも愛したそうだ。
今朝しばらくの間じっと坐った後、そうか私は「人生の贈りもの」をいただいたのだ…と思った。
娘から贈られたように思えるが、参列された多くの方々、それは彼女の人生に大きく関わってきた、あるいは関わっていく人たちだが、その皆さんから贈っていただいた。
否それだけではなく、天国にいる父母、参加されていないが深く関わっていただいた多くの方々から贈っていただいた。
あるいはまた、いま生きている、こういう「時代」から贈っていただいた。
・・・
「仏教3.0を哲学する」に取り組んでいて、「世界」を自分の内に感じることに挑戦している。
知覚を通じて私たちは「世界」を認識する。
「私は虫の声を聴く」とはあまり言わない。単に「虫の声が聴こえる」という。
「私は山を見る」とも「月を見る」ともいわない。単に「山が見える」という。あるいは「月が出ている」という。
「私は匂いを嗅ぐ」ではなく単に「匂いがする」といい、「私はそれに触れる」ではなく単に「なんか触ってる」などという。
日本語では主語が省略される。主体的な動作よりも、変化した状態を表現する傾向が強い、とか何とかというのをどこかで読んだ。
知覚を通じて世界は「意識の野」に現れる。
意識の野に「月が出ている」。意識の野に「雨音が聴こえる」。
阪急北千里駅から阪大吹田キャンパスへの通学路に見事な紅葉の名所がある。空間が輝くのだ。
意識の野に飛び込んでくるそうした知覚もありがたい「贈りもの」。
人生への「贈りもの」に感謝して生きる
意識の野への「贈りもの」に感謝して生きる
クリスマスの朝にいただいたインスピレーションもまた尊い「贈りもの」。