ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

徹底的な安心感とマトリックス

平成29年6月10日のブログで吉福伸逸氏のいうマトリックスのことを書いた。それはエネルギー源の提供、徹底的な安心感、排泄物の処理という3大機能をもち、子どもの成長とともに子宮から、母親、そして家庭、自然界や仲間、会社へと移行していく。

 

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そして夏のNPOの大会で『安心感の輪』(Circle of Security Program)とアタッチメント(愛着)理論について学ぶ機会があった。

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幼児にとって母親は「安心の基地」としての機能を果たしている(果たさねばならない)ことがよく理解できた。このマトリックスである母親を基地として子どもは探索活動に出かけ、また帰ってくる。そしてこれを何度も繰り返す。

しかし母親と父親との関係がうまくいかないことやその他の状況が影響して、そうした安心の基地としてのマトリックスが年相応な形で機能しないなら(マトリックスの機能不全)、パーソナリティが歪みがちになると吉福氏は書いている。それはアタッチメント理論、安心感の輪プログラムからも明白だ。

典型的には、対人関係で不信感が強く出やすくなり、他者を信頼できず、他人に自分を預けることができない。常に不信感を持って他人と接触するようなパーソナリティに育ちやすくなってしまう。

という。

そして先日、日本版CCRC(Continuing Care Retirement Community)について調べていて、家族の関係、友人や職場の関係、という人間関係の距離感とコミュニティについての記事を目にした。
私たちの世界は、愛情空間、友情・知り合い空間、貨幣空間の3層の同心円構造で表現される、と書かれている。

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愛情空間とは、家族や恋人との関係であり最も大切な空間(2~10人)。友情空間とは、親しい友達との関係であり、人によるが10~30人程度。知り合い空間は先輩後輩、上司部下、近隣などとの関係で10~30人程度。貨幣空間とは、コンビニの店員などとの関係であり、市場を介して誰とでも繋がれる(原理的に無限大)。

CCRCはこの第2層である友情・知り合い空間(定年後、地域にネットワークを形成してこなかった男性においてこの空間の収縮が著しいと考えられる)をコミュニティとして再構築することが目標となるのだが、それはさておき・・・。

この愛情空間と、友情・知り合い空間のうち愛情空間に接した親密な円周部分がマトリックスとなって機能することが「マトリックスの健全な移行」という観点からは望ましいのではないだろうか。マトリックスが中心から外側へと広がるほど、中心への依存は低くなる。それは健全な成長だ。

(ただ緑の空間の代替えとして、水色の貨幣空間にマトリックスを求めるようになると、安心・信頼の関係をお金で買おうとすることになるので、それは人生を間違えかねないだろう。)

吉福氏は、母親との関係においてマトリックスが損なわれていたとしても何らかの代用が補償として働くことがあるという。

安心の基地としての母親というマトリックス、あるいは家庭というマトリックス、の代償となるとは?

6/10のブログでは共同体感覚を育める人間関係がそれにあたるのではないかと書いた。

それは自己受容、所属感、他者信頼、貢献感、の感じられる集団に帰属しているならそれがマトリックスとして機能するのではないかと思われたからである。

吉福氏は「小さな共同体」がそれにあたると書いている。

それは例えば、NHK朝ドラ「ひよっこ」で展開されているアパート住民と近隣のコミュニティであろう。

 

さらにさらに、マトリックスにまつわる思いは巡って・・・。

われわれは生まれてから、何か自分の背景となってくれるような、自分自身を全面的に明け渡してしまってもかまわないような、信頼できる何ものかとのつながりをベースにして生きているとぼくは考えています。

と吉福氏は書いているが、これは根源的なI-I、目撃者(Witness)がマトリックスになるということを同時に含意しているのではないか、と感じた。『無境界』はじめ多数のウィルバー著書を翻訳してきた吉福氏でもあるからだ。

ウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』p86-87より『ワン・テイスト』の抜粋を引用

この11日間、ぼくはまったく眠らなかった。あるいはむしろ、11日間、夜も昼も意識があった。その間、身体も心も起きたり、眠っていたりしていた。けれどもその変化の中にあって、ぼくはまったく動かなかった。そこにあるのは、まったく変化しない、空なる意識であった。それは輝く鏡の心(mirror-mind)であり、目撃されるもの一つとしての「目撃者」であった。ぼくは自分であるものに立ち返った。そして、それ以降、多かれ少なかれ、そのようであった。
 この定常的な非二元の意識が明白になると、新しい運命が顕現された世界のなかで、目覚めてくる。自分自身の仏心を、至高の神を、無形の、空間のない、時間を超えた空性を、アートマンであるブラフマンを、ケーテルを、キリストの意識を、発見するだろう。いろいろな言葉で言われているが、それはワン・テイスト(一味)である。あなたの本当のアイデンティティは、空、あるいは属性のつけられない、かくの如しの(as Such)意識であり、こうしてあなたは、小さな対象に溢れた、小さな自己と同定していると必ず起こる、恐怖や苦しみから解放される。
一度、仏心、アートマン、至高神としての、この無形のアイデンティティを発見すると、定常的で、非二元的で、常に現前する(ever-present)意識を、その意識のまま、より低い状態、微細な心や粗大な身体に再び入り、その意識のなかで輝くように活性化させる(reanimate)ことができる。あなたはただ無形で、空なる状態にはとどまらない。その自分自身の空性を、いわばカラにする。あなたはそれを心や身体や世界に流し込む。しかし特に特定の心身(ぼくの場合はケン・ウィルバーに)に流し込む。こうして低い(状態の)自己は「スピリット」の乗り物になる。
 あなたの小さな心や身体、感情、思考などは、あなたそれ自身である広大な空性のなかに生起し、生起するごとにおのずから解放される。なぜなら、あなたは生起するもののいずれとも自分を同一化していないからである。むしろ生起するものをそのまま遊ばせる。そのまま「空性」と開けのなかに解き放つ。この時、根源的な自由として、あなたは目覚める。輝く解放の歌を歌う。・・・
 しかし、あなたは、この自由を見つけたのではない。あるいは獲得したのでもない。それは純粋な「目撃者」のなかに最初から住んでいた自由である。あなたは始まりのない始まりから、あなたのなかに住んでいた純粋で空なる「自由」に目覚めたに過ぎない。それは根源的な「私―私」である。あなたがそれに気付かなかったのは、あまりにも人生の映画によっていて、我を忘れていたからにほかならない。

 「むしろ生起するものをそのまま遊ばせる」・・・

生起するもの、遊びに行くものは「子ども」、遊ばせるのはマトリックスである「母親」であり純粋な目撃者だ。

お付き合いいただき、ありがとうございました。<m(__)m>