ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

「目撃者の自己」と「複雑系の自己」

ウィルバーのいう「目撃者としての自己」と、ここ何回か記事で取り上げてきた「複雑系としての自己」を対比させて示せないかと考えて以下のような図を描いてみた。

 

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上図は「目撃者としての自己」(目撃者の自己)の広がりを私なりに示したものだ。
I(個人の内面)、We(集合の内面)、It(個人の外面)、Its(集合の外面)という4象限マトリクスはウィルバーのインテグラル理論の基本である。
目撃者(Witness)はどこに描くのがふさわしいのだろうか?
実は目撃者に位置はない。非位置なのだ。

であるから、4象限のどの象限にも属さない(つまりどこかの象限の中に描くのはふさわしくない)。あるいは逆にどの象限をも捉えているともいえる。
しかし便宜上、説明しやすいように左上象限の外側に眼を描いた。これが「目撃者としての自己」の眼である。

目撃者である眼からは3重の楕円(ループ)が広がっている。順番に見ていこう。

まず、一番小さな楕円は(個人の内面)象限に伸びている。
あなたは、空に雲が浮かんでいるのに気づくように、意識に生起する感情に気づくことができる。感情は対象(object)であり、あなたではない。主体であるあなたは客体(object)である感情に気づく。感情を見ているあなたは、目撃者である。
あなたは、空に浮かんでいる雲に気づくのと同じように、意識の中で湧き起こる思考に気づくことができる。気づくことができる思考とは対象であり、あなたではない。主体であるあなたは客体である思考に気づく。思考を見ているあなたは、目撃者である。

このように内面に生起する感情や思考と脱同一化し、それらを対象として観ることが目撃者の第一歩である。

次にIt、We、Itsへと伸びた2つ目の楕円である。
目撃者は、何の努力もなく身体に気づくことができる。立っているのか座っているのか、止まっているのか走っているのか、笑顔なのか汗をかいているのか、脈拍が速いか、体温が高いかなどなど。動作や身体の状態などの個体の外面(It)に気づいている。

同時に、「私たち」(We)にも気づくことができる。スポーツで所属しているチームが勝利した時、その一員であることを誇りに思う気持ち。所属感、共同体感覚。友情。あるいは家族間の愛情。そうした他者との感覚や共通の価値観に気づくことができる。それらは他者との間で間主観的に内面に生起する。それもまた対象である。

五感を通して身の回りの環境、自然(Its)に気づくことができる。鳥の囀りが聞こえる。風が冷たい。金木犀の香りがする。落ち葉を踏みしめる感覚。銀杏並木が美しい。蓄えられている記憶や知識とインプットされた情報がやりとりされ、それが何であるかが認識される(歪められることも多い)。それら世界を構成している諸物もまた意識のなかに生起しているのだと気づくことができる。

最後の3つ目の楕円では、I、It、We、Itsの各象限が4点生起し、それらすべてを包含する視点としての目撃者が自覚される。その意味ではI(左上)象限の外の縁に眼があるというよりもむしろ、4象限マトリクスの背景として目撃者は在るといった方がよいかもしれない。この意識は広大(Spaciousness)で、どんなものとも同一化しておらず、それゆえ空(Emptiness)であり、開かれている(Openness)。

意識のなかに4象限が生起している。それが左上I象限の外側の縁に目撃者の眼を描いた理由である
「目撃者のとしての自己」はこれら4象限の中のどのようなコンテンツとも同一化しない。それらのコンテンツはあくまでも意識に現れる対象であって、「自己」ではない。
(非二元としての自己ではこれらすべてのコンテンツが自己となり、自己=世界となるがここではそこまで踏み込まない。まだ私には踏み込めない。)

 

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「目撃者としての自己」に対し、こちらは私のイメージする「複雑系としての自己」(複雑系の自己)の図である。

複雑系の自己には位置がある。世界内観測者、世界内行為者としての位置である。
順を追って見ていこう。

まず、「位置がある」ということは、物理的な身体に依存している、身体に依拠しているといってよいだろう。そして行為→認識および認識→行為が相互作用として生じる。それが最初の小さなループ(Its-I)である。

次に、行為を通じて環境との相互作用が起こる。環境を改変し環境を創造する。逆に環境から身体が影響を受ける。認識が改まる。世界に対する一定の認識にもとづく行為によって他者との関係が生じる。他者との関係から新たな世界が生まれる。そうした相互依存関係が二つ目のループで示されている(It-Its-I-We)。

全ては相互作用しており、単独で固定した実在として存在するものは何もない。4象限の中味としてあるものは、すべて相互連関のネットワークとして存在している。個物と個物は相互に影響し合い、個は全体に反映され、全体は個に影響を与える。一つの珠玉に他のすべての珠玉が映し出されるインドラ網。それが「複雑系としての自己」の3つ目のループである。

「目撃者の自己」では3重の輪を楕円と表現したが、「複雑系の自己」では3重のループと呼びたくてそう表現した。なぜだろうか。

それは「目撃者の自己」がどちらかというと静的な存在で楕円によってその範囲をカバーしているというニュアンスが強いのに対し、「複雑系の自己」は動的なル-プとして回りながら全体が生成変化しているイメージが強いからだ。

目撃者の自己から非二元の自己へと突破することで「自己イコール世界」となるが、複雑系の自己では、自己は世界内行為者であり続け(であるから右上象限として位置づけされ)、私の表現では「世界と自己はセットである」として、(たしか小林道憲氏の表現では「宇宙は参加型の宇宙なのだ」という形で)、「自己イコール世界」となる。

個をある程度意識したままで、その相互依存的な世界の性質によって「個物としての固定した実体などない」として「本質」を「無化」するアプローチが「複雑系の自己」である。これは「個と個、個と全体の境界の消失」である。

それに対し、「意識の野」に現れるもの、生起するもの(それが普段私たちが何の疑いもなく自分と思っている「思考」も含めて)すべてを対象(客体)として目撃したのち、目撃している自己すらも消え去るというアプローチが「目撃者の自己」である。これは「自己と対象(世界)の境界の消失」である。

 

言葉足らず説明不足をお許しください。お付き合いいただき、ありがとうございました<m(__)m>。

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