ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

見せかけの不運と、無「本質」化

この1か月ほど前に、ネガティブな出来事があり、その対応のため少々苦慮してきた。

しかし、そんな中で、ジョン・レノンの息子であるショーンがNHKの番組『ファミリー・ヒストリー』に出演していた時に話した「ママはよく、これは見せかけの不運だっていうよね」という言葉を思い出した。

  オノ・ヨーコの祖父小野英二郎は東京帝国大学の試験を受けるも失敗し、米国に渡りミシガン大学大学院に進学する。そして経済学博士号をとり、のちに帰国後新島襄に招かれることとなる。

 このくだりを見ていたショーンは、試験に落ちたことは、ママ(オノ・ヨーコ)がよく言う「不運に見せかけた幸運」だよね、といった。

 もし試験に落ちなければ、渡米することもなかっただろうし、博士号を取得できていなかったかもしれず、新島襄に招かれることもなかっただろうから。受験の失敗は見せかけの不運であって、じつは不運に見せかけた幸運だったんだ、というようなことを言った(と記憶している)。

 

そしてそれに関連して、本ブログで取り上げてきた3つのキーワードとつながった。

それは、「本質の無化」、「脱フュージョン」、「カオスの縁」である。

 

「本質の無化」

(ここでいう「本質」とは、以下のブログにあるようにむしろネガティブな意味での本質のことである)

表層意識における概念的「本質」 - ウィルバー哲学に思う

本質の無化から、無「本質」的分節へ - ウィルバー哲学に思う

事物の本質を「物」と「事(出来事)」に分けて考えよう。

「物」についての本質は、ここに書いているように例えば「木」というコトバを目にし、耳にした時に心に浮かぶイメージや概念としてのシニフィエであり、矮小化されたリアリティである。一方、「出来事」についての本質は、主観的判断と複合した観念であり、それが積み重なると固定観念となり、体験する前から予期すると先入観となる。

不合格という出来事について、それは「好ましからざる事である」という固定観念があると、それは「不運」な出来事に分類される。

 しかし不合格は必ずしも好ましからざることであるとは言えない、という見方ができるなら、その不運は「見せかけの不運」であり、「不運に見せかけた幸運」なのかもしれない、と考えることができる。

 その不運は見せかけであると見抜くこと。それは「本質を無化」することに等しいといえよう。

 その出来事を不運だと判断しているのは、経験に基づいた、心のなせる業であって、その出来事をありのまま見ているのではない。過去の経験に基づいた固定観念というフィルターを通してみているのである。

  

「脱フュージョン

これはACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)を構成する6つのキーワードの一つである。

認知的フュージョンには、自分の感覚や感情に苦痛があるとき、その苦痛と自分自身を同一化してしまう「自分と自分の苦痛のフュージョン」、体験そのものと二次的な思考を同一視してしまう「思考と体験のフュージョン」、木の例で上述した「ことばとそれが指し示す物事のフュージョン」、そして「出来事と評価のフュージョン」などがある。

脱フュージョンで出来事と評価を切り分ける - ウィルバー哲学に思う

出来事の評価のフュージョンを脱するには(脱フュージョンするには)、「記述」と「評価」を切り分けることが重要だ。この例では「試験を受けたが、合格しなかった」と表現するのが「記述」であり、「不運にも不合格であった」と表現するのは、主観的な判断を交えた「評価」である。

「不合格であった」は出来事を記述したにすぎないが、「合格できず不運であった」というのは評価である。その記述された出来事は本来中立なのであるが、それを評価したときにその出来事自体がもつ性質のように思われてしまう。

フュージョンして記述と評価を切り分けるなら(そしてむしろ逆の評価をあえて張り付けるなら)、不合格は「見せかけの不運」なのかもしれず、「不運に見せかけた幸運」であるかもしれないのである。

 

カオスの縁(ふち)」

とはいうものの、この不合格となった小野英二郎の例でも、短期的には苦境に立たされたのであり、そのような時、人は真価を問われることになる。

それまでとは、異なる不確実な状況(環境)に身を置くことになるのだ。それは複雑系のことばでいうなら秩序とカオスの混ざり合った状況、いわゆる「カオスの縁」に立ったのである。カオスの縁では相転移が起こりやすいことが知られている。苦境に立ったとしたら、それはカオスの縁に立っているのであり、間もなく相転移が起こるのだと考えよう。新しいスキルや、能力を身につけて、一段高い地点に立つのである。

 

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分節Ⅰ→無分節(本質の無化)→分節Ⅱという井筒俊彦氏のチャートに準ずれば、

 

不運な不合格→本質の無化(依他起性)→不運と幸運を内包した不合格(見せかけの不運)

 

というように書き表せるかもしれない。

 

不運な出来事は、無「本質」化すれば、「見せかけの不運」となり、「カオスの縁」に立っていることを自覚すれば、「不運に見せかけた幸運」へと変容させることができるのである。

 

 

相転移」の補足

相転移とは、水が氷になったり、水蒸気になったりするように、気体、液体、固体など温度や圧力の変化によって別の相に急激に変化することをいう。

プラズマの発生、対流のパターン形成(ベナール細胞)、結晶の生成、粘菌の移動、都市の形成、技術革新など、相転移現象は、創発現象である。

 

カオスの縁」の補足

セル・オートマトンの研究:セル格子群に単純な規則を与えるだけで反復させると最初の2次元図形が予想できないパターンに変形していく。①均一への収束、②振動、③無秩序、④複雑な振舞い(=カオスの縁)という4つのパターンがある。

カオスの縁(ふち)とは「混沌と秩序の狭間にあるとき」であり、自然は盛んな自己形成能力を発揮し豊かな形態を作り続ける。新しい秩序の創発する場であり、進化や変革が進展する場である。→このような能力をもつ系を「複雑適応系」と呼ぶ。

 

 「依他起性」の補足

華厳哲学を完成した法蔵は、この縁起においてあること、つまり関係性においてあることを、依他起性(えたきしょう)と名づけた。他によって起きるということである。このあり方が妄想されたあり方に変ずると偏計所執性(へんげしょしゅうしょう)となり、完成されたあり方に転ずれば円成実性(えんじょうじっしょう)となる。