「生命の躍動」とは一昨年来、折に触れてこのブログでも取り上げてきた「生命(いのち)の躍動」です。
生命と書いて「いのち」とよんでいます。
ベルクソンがいったelan vital(エラン・ヴィタール)には「複雑系としてふるまう創造的進化の原動力」という定義を2017年7月18日のブログで記しました。
宇宙あるいは自然が自己組織化しようとする働きです。
自然の、あるいは大宇宙の「生命の躍動」です。
それに対しここで詠んだのは、私個人の「生命(いのち)の躍動」です。
「内なる躍動」と言い換えることもあります。
星の子である私たち個人を小宇宙と見なすなら、大宇宙のelan vitalと小宇宙の「生命の躍動」が共振するのはある意味当然といえるでしょう。
絵画のように情景がありありと目に浮かぶ五七五にはなっていませんが、いわば「人間探求派」のそれ(「我はいかに生きるか」という意識を深めるべきものとする俳句)です。
健康寿命を意識する年齢になりました。この世に生を受けて六〇回目の世界が開闢(かいびゃく)したことになります。
目の前を過ぎてゆく世界は、時代とともに移り変わっていきます。楽しい時もあれば、苦しい年代もあり、吹きすさぶ木枯らしに心寒かった時節も思い出されます。
そのような時に、どちらへ進めばよいか分からないような、道なき道を進むときに「道しるべ」となってきたのは、内なる「生命の躍動」であったことに思い至りました。
生命の躍動という内なる羅針盤が示す方へ、だんだん躍動が高まる方へと、歩いて来たのだと思います。
それは必ずしも、習俗的な価値観に受け入れられるものばかりではありませんでした。
むしろ非慣習的な方向を示すことも多かったようです。
しかしながら、幼少期からの少々危険を伴った「遊び」(昆虫取り、木登り、磯遊び、魚釣り、鉄棒、バク転・・・etc.)に、育まれた性質?涵養された性格?のせいでしょうか。
(精神科医のスチュワート・ブラウン博士は、子ども時代の「自由な遊び」が、創造性、共感力を育み楽観的な性格を培う、そして大人になっても困難を乗り越える力を与えてくれるといいます。)
「(知的な、質的な)生産性はこうした躍動のあるこっちの道の方が絶対に高い」
「であればやがてうまくいく・・・はず」という、何というか身体感覚のようなものです。
その感覚を辿って来ました。いのちの躍動を道標に歩んできたら今の世界が開けている・・・。
木枯らしや生命の躍動みちしるべ
おー、いま気づきましたが、昨年の朝ドラ「なつぞら」の主題歌の一節にちょっと似ているかも(笑)。
めげずに歩いたその先に 知らなかった世界 ♪
新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたしますm(__)m。