ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

「巣籠り」で「良知」と出会う

北京で蝶がはばたいたら、ニューヨークでハリケーンが発生する。複雑系カオス理論の初期値鋭敏性の説明に使われる比喩で、バタフライ効果とも呼ばれている。

 

今回の事象は、武漢でコウモリがはばたいたら、世界中の大都市から人が消えたのである。凄まじいバタフライ効果だ。

 

などと思いを巡らせるうちに、陽明学で言う「良知」が、「何にでもなれる」という「絶対肯定」に結びつく概念であり、空即是色とも関連するのではないかという考えが浮かんだ。

 

〇〇ではなく、〇〇でもないというのが2011年11月2日のブログ『マインドとの脱同一化と絶対否定』で書いた絶対否定であり、色即是空である。

 

一方、であるからこそ何にでもなれるというのがDavid Loyのいう絶対否定転じて絶対肯定であり(2012年1月30日『絶対肯定としてのトンパ・ニ』)、本質なき実存の向かう方向性のひとつといえる。

 

困難な状況は固定した実体のように見える。いつまでも変わらないように映る。しかし、実相は依他起性であり、無常である。事象はたえず他の要因と相互作用し、状況は止まっているのではなく常に動き、変化している。

 

家にいなければならない状況。仲間と会えない状況。仕事や趣味が制限される状況。経済的な制約が生じている状況。

 

まず困難に見える状況を、毛様体を柔らかくして無本質化(実体なき幻想として看破)して観る。根拠が希薄なことに気づくかもしれないし、必ずしも悪いことばかりではないことに気づくかもしれない。それが絶対否定だ。

 

転じて次に絶対肯定に向かう。

 

見方(perspective)を変える。

 

そして、巣籠り。

 

「籠る(こもる)」という単語をひくと

・気体などが一杯に満ちる。 「タバコの煙が部屋にこもる」

・気持ちなどはっきり形に表れないものが内に含まれている。 「力のこもった作品」 「愛情のこもった手紙」 「感情のこもった表現」

・一定期間社寺に泊まりこんで勤行や祈願をする。参籠する。おこもりする。 「山寺に籠る」

・内深く入って外からは察知しにくい状態になる。 「陰(いん)にこもる」

 

 

籠るという漢字はなぜ、竹かんむりに龍と書くのだろう? 

 

竹の筒に入った何かわからないが生命力に満ちたものの象徴か。

 

「巣籠り」している間にその生命力が醗酵し、あなたは何かに変身する。能力の、あるいは知性の「相転移」が起こる。

 

「巣籠り」はそのための絶好の機会である。

 

何になるのか?

 

それを自分の「良知」に聞いてみる。

 

深く…深く…耳を澄まして。

 

ふと、何をしたらよいかが分かる。どう過ごしたらよいのかが分かる。まさに好機到来であるかもしれないことが分かる。

 

・・・

 

「巣籠り」で、そんな「良知」と出会えるかもしれない。

 

(「良知」とは何かについては触れていませんが。ネットで検索するとすばらしい解説がいくつもあります。私は小林道憲氏の『複雑系社会の倫理学~生成変化の中で行為はどうあるべきか~』の中にある「良知」のコンセプトから発想しています。)